「敵」をつくろう

有限の資源を取り合う場合、
どうしても自分にとっての「敵」が存在することになります。
 
もちろん共存することが最も美しいことなのですが、
この世界は有限の資源しか用意されておらず、
争うように仕組まれているのです。
 
ギリシア神話の主神ゼウスは、
人々に災厄をもたらすためにパンドラの箱を地上にもたらしました。
その例えは、事実です。
 
我々「生命」の歴史は、戦いの歴史でもあります。
「弱肉強食」で、どれだけの悲しみが生まれたか。
「寄生」で、どれだけの苦しみが生まれたか。
 
同種族の間にだって争いはあります。
インドのサルの一種であるハヌマンラングールは、
子殺しをすることで有名です。
それは、群れのボス猿のオスが、
他のオス猿にその地位を奪われたときに起こります。
新しくボスになった猿は、
まず手始めに群れにいた子猿を皆殺しにするのです。
その時の母猿の悲しみは、見ている側も胸が張り裂けるような気持ちになります。
 
このように「争い」の本能は遺伝子レベルで刻まれている訳です。
もちろん人間や他の「生命」は自分達の「幸せ」のために、
「争い」に対抗する手段や知恵を生み出してもいます。
 
例えば、闘魚の争い。
闘魚はメスを巡ってオス同士が争う魚として有名ですが、
その争いは決して殺し合いには至りません。
彼らはその華麗なヒレを広げて威嚇し合い、
どこかのタイミングでどちらかが負けを認めて退散するのです。
 
このような争いの手段が用意されていれば、
一方はメスを取り逃す結果になりますが、
両者の命は存続し、
負けた方も次のチャンスに賭けることができます。
 
さてさて私達人間には、そのような明確な争いのルールがあるでしょうか?
 
遺伝子由来なのか、魂由来なのか、わかりませんが、
「良心」というものは用意されています。
どんなに酷く争っても、相手を殺すまで至ることは稀です。
 
また社会的な知恵として「法律」を創り、殺人を抑えています。
この効果も絶大です。
中には、罪になるからという理由で、人を殺すことを躊躇する人もいると思います。
 
このように「平和」が尊くて当たり前という価値観が、私達には根付いた訳です。
しかし世界の資源が有限である以上、
(石油であれ、お金であれ、異性であれ、偏差値であれ、職場内の相対的な評価であれ、)
私達には争いがついて回ることを理解しなければ、ちゃんと生きていくことはできません。
 
「争い」は、必ずそこにあるのです。
そして、どうしても「敵」は現れるのです。
 
敵と言っても、いかにも悪人面で自分勝手な人物ばかりとは限りません。
自分との相性もあるはずです。
それに、弱い立場を取って自分を利用しようとする人も現れるかもしれません。
 
いずれにしろ、遺産争いのような物質的な争い、精神的な優位性を巡る争い、
奪い合うものは様々であると思いますが、
この世界が有限である以上、
(自分はそうは思っていなくても)敵の候補は現れると考えるべきです。
 
その敵の候補が、どのような価値観を持っているかはわかりませんが、
一方的に自分を利用しようとしたり、
露骨に攻撃を仕掛けてきたりする可能性は十二分にあります。
 
もちろん自分が攻撃を仕掛けているということもあるでしょう。
 
このブログ記事で私は、「争いましょう!」と言うつもりは全くありません。
しかし、常に敵の候補が存在して、
下手をすると争いになるということは認識する必要があります。
 
下手な価値観で「世界」を信じすぎたら、
いざと言うとき深刻な争いが発生し、
自分か相手か、もしくは両方が深手のダメージを負うような悲劇につながってしまうのです。
 
これは、国家間においても同様。
下手に「平和」を信じすぎたら、相手が勘違いし深刻な事態を起こし、
こちら側も深刻な争いに巻き込まれてしまう可能性が十二分にあります。
 
そうではなくて、「生命」達の知恵に学ぶのです。
闘魚は、その名前にふさわしくなく実に平和的な魚だと思います。
儀式的な威嚇合戦で、争いを収めているのですから。
 
私達にもお互いのダメージを最小限にするような(肉体的にも精神的にも)、
争いの知恵が必要だと、私は考えます。
もちろんそんなことは学校では教えてくれませんので、
個々人がそういった知恵を習得することが必要です。
 
ここで、タイトルの話になります。
全てが平和!という、戦いを忘れた状態になることは非常に危険です。
それは、自らの争いの厄災をもたらすリスクにつながるし、
全てが平和と信じきって、
資源を我田引水していつの間にか敵をつくってしまうことにもなりかねません。
しかも敵ができたことにも気づかず、
突然敵から戦いを挑まれるという想定外の事態に巻き込まれ、
ちゃんとした戦いの知恵もないので、
美しくない戦いを起こして、相当な深手を負うという事態も普通にあり得るのです。
 
そうならないためにも、ちゃんと「敵」の候補を認識する必要があると思います。
自分は、この人とこの資源で競合している。
あるいは、自分の価値観は、この人の価値観と競合しているようだ、という気づき。
 
そういう風に「敵」の候補を認識しておけば、
自分やお互いが傷つくような争いを回避することができる訳です。
 
それでも万が一、争いが起きてしまったら、
闘魚のようにお互い無傷で争いを終えましょう。
勝つ必要のない戦いでは、降参することも手です。
私は闘魚の争いを見て、降参する魚の方に敬意を抱きました。
 
もちろん時には、どうしても負けられない争いもあるでしょう。
そういった場合であっても、強い気持ちと強い知恵を持って、
最小限の戦いで済ます方法を模索する方が、自分にとっても得策だと考えます。
 
かつてギリシアの偉い神様は、私達に災厄のパンドラの箱をもたらしましたが、
私達「生命」は、そんなものにいつまでもつきあう必要はないのです。