「闘争」の真実

今日も、
ノーベル賞学者コンラート・ローレンツ博士の著書
「攻撃 悪の自然誌」から。
彼は、刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られています。
ウィキペディアは、こちら
 
この書籍には、こんなことが書かれていました。

またふつう門外漢は、濫用されることの多い流行語になってしまった
ダーウィンの「生存競争」という言葉に出会うと、たいていの場合、
誤って、異なった種の間に起こる闘争のことだと思ってしまう。
だがじつは、ダーウィンの考えた進化を推し進める「闘争」というのは、
何よりもまず、近縁な仲間どうしの競争のことなのだ。

 
私も、勘違いしていました。
「生命」の「生存競争」と言うと、
ライオンとシマウマというような多種族間の闘争を想起してしまっていたのです。
 
しかし実際の所は、ライオンがシマウマを滅ぼしてしまうことはありません。
それは、ライオンはシマウマから恩恵を受けているからです。
もしシマウマが極端に減少したら、ライオンの食料も減るわけで、
ライオンの数も減ってしまいます。
そうしてライオンの数が減少すると、今度はシマウマの数が増加していき、
その増加につれて、ライオンの数も増えるということになる訳です。
 
ですのでライオンとシマウマは、滅ぼし合うような関係にないと言えます。
 
これも書籍に書いてあったことですが、
実際動物を観察すると、
エサを捕食する時と同種内で争う時の表情や仕草には、ものすごい乖離があるそうです。
エサとなる動物を見つけた時には、喜びを伴う興奮状態になります。
一方で、自分の縄張りに入ってきた同種に向けられる表情はまさしく「憎悪」なのです。
 
先程書いたように、ライオンがシマウマを絶滅させることはありませんが、
同種内で異なった形質を持つ者同士は、他方を絶滅させるまで競争を続けます。
 
現在、首の長いキリンしか生き残っていないのは、
過去に首の短いキリンが首の長いキリンに滅ぼされたからなのです。
 
上記のように見ていくと、
同種族内での「闘争」は、進化する「生命」の宿命として、
「生命」の「遺伝子」に内包されていると考えられます。
「憎しみ」は、この同種族間「闘争」のために発生した「感情」なのです。
 
さて、見渡す限りの同種族で生活する人間達にも、
もちろん「遺伝子」がもたらす「闘争」の強い衝動が存在します。
しかし人間は「前頭葉」を発達させ「理性」を獲得しているので、
他の動物たちのように衝動的な縄張り争いが頻発することは回避できている訳です。
 
それでも「闘争」の衝動が消えた訳ではありませんので、
学校でのいじめもなくならないし、
私達の悩みの元は常に人間関係だったりします。
 
今回私が言いたいことは、
「生命」の宿命として、人の中にも「闘争」の衝動が必ず存在するという点です。
 
もちろん現代の人間社会において「闘争」を回避すべきと考えますが、
人に「闘争」の衝動がないと誤解して行動すると、判断を誤ると思います。
あるいは、人の「闘争」の衝動を「悪」と決めつけ、
他者に「闘争」の衝動があることを「あり得ない」と思考停止するのも危険です。
現に今までの私は、周囲に「よい顔」をして「闘争」の衝動を「悪」と決めつけ、
他者から「闘争」の衝動を示されたときには、
「あり得ない」と相手を見下すことで、問題を解決しようとしてきました。
もちろん、そんなことで問題は解決しないのですが、
愚かな私は、そういう人間は社会から消え去ると信じていた訳です。
 
本当に、同種族の中で強く生きて行くには、
「闘争」の衝動がある前提で、生きる作戦を考える必要があります。
 
まず、「よい顔」をすることはやめるべきです。
それは、自分の中に「闘争」の衝動があることを誤魔化す行動に他なりません。
むしろ自分の中にも「闘争」の衝動があることを認めた上で、
それをいかに自分にとってプラスの方向に制御するかに知恵を使うのです。
 
そして、他者の中にも「闘争」の衝動があることを認めます。
それは自然なことであり、「悪」なんかではないのです。
 
このようにちゃんと世界を正確に捉えて行動しなければ、
事故が起こってしまいます。
例えば、「よい顔」を続けていてある日爆発するとか、
自分や両者に深刻なダメージやトラウマを与えるような破滅的な「闘争」が起きるとか。
 
私は「よい顔」をすることをやめることにします。
どんなに「よい顔」をしたって、
「闘争」の相手には、私の心情なんて「妄想」に過ぎないのが現実です。
私は実体験を通じて、「よい顔」をしたって無駄なことを知りました。
 
そうではなくて、ちゃんと主張するのです。
相手に「よい顔」を見せても「闘争」を回避することはできません。
「よい顔」をするのは、子が親にとる「甘え」なのです。
ちゃんと主張して意見の調整を行うのが大人の行動だと、私は考えます。
 
自分の中にも「闘争」の衝動があるのですから、
特定の他者を嫌うことも自然なことです。
逆に自分が、他者からいわれなく嫌われることも普通にあると理解します。
 
自分が他者を嫌うことを「悪」とみなしていると、
やはり事故が起きてしまうのです。
警戒をせずに天敵に近づく動物は痛い目に合います。
自分が嫌いなタイプは、相手も自分を嫌いなタイプと認識することが多いのです。
 
大体、いわれなく自分を嫌う他者というのは、
自分と価値観が競合する人が多いと感じます。
例えば、
一つのクラスでも真面目な学生と不良の学生では明らかに価値観が競合する訳で、
彼らは潜在的にお互いを嫌い合う関係になるのではないでしょうか。
 
ですから、自分が特定の他者を嫌うことも自然なことだし、
特定の他者が自分を嫌うのも自然なことであると考えてよいと思います。
ただし嫌う相手を実際に害してもよいかというと、もちろんそれは別の話です。
 
子どもは嫌いな相手と喧嘩しますが、大人は嫌いな相手ほど神経を使って調整を行います。
大人は協調性を持って組織のメンバーと一緒に成果を出すことが求められているからです。
 
敵を知り己を知れば百戦殆うからず
 
自分の「心」の好き嫌いを、善悪を超越してしっかりと認めた上で、
相手の「心」にも好き嫌いがあることを、自然なことと受け止められれば、
私達は最も理想的で建設的な人間関係を構築できるような気がするのです。
 
「幸せ」に生きようとするのなら、
この「闘争」の真実を理解する必要があると思います。