「善悪」は幻

先日実家に帰ったとき、
庭でスズメが喧嘩していました。
エサの取り合いです。
 
エサ台でエサを食べていた1羽のスズメ。
そこに、もう1羽のスズメがやってきて、最初にいた方とケンカになりました。
 
ケンカはもちろん殺し合いなどには発展せず、
「チュチュン!チュチュン!」とクチバシで何度か取っ組み合い(?)をした後、
後から来た方が降参して、その場を離れたのです。
 
私はその光景を見て、負けたスズメの方に多少同情はしましたが、
全般的には(真剣にケンカをしていたスズメ達には申し訳ないのですが、)
微笑ましい光景として観察をしていました。
 
このスズメのケンカを通じて、
どちらかが「善」どちらかが「悪」と決めつけることは、
意味のないことだし、とても傲慢なことです。
 
例えば、私が勝ったスズメに腹を立てて、
そのスズメを追い払ったとしたら、
なんかモヤモヤしたものが残りませんか?
一方に肩入れした私の傲慢さが透けて見えるからです。
 
勝ったスズメも負けたスズメも、
二人とも真剣に生きているからケンカが起きました。
「生命」の真実は、「善悪」でなく「一生懸命」です。
スズメにとって「善」も「悪」も腹の足しにはなりません。
「一生懸命」に生きているからこそ、今日も明日も生きることができるのです。
 
さて昨日のブログで、
同種間の「闘争」は、「生命」の真実だと述べました。
ダーウィンの進化論が正しいとするならば、
「生命」の進化は、同種の異なる個体を滅ぼすことでなされてきたのです。
もちろん進化論を否定する気なら、
「闘争」を「悪」と断ずることもできましょう。
 
「生命」には、限られた資源しか与えられていないのです。
有限の食料、有限のスペース、有限の時間、有限のパートナー。
これらを仕方がないと感じるのなら、
スズメのケンカも仕方ないと感じるべきです。
冬のエサの少ない時期には、
自分の見つけたエサを横取りに来る他の個体を追い払わないと、
自分が飢え死にする可能性もあります。
スズメは「一生懸命」に生きているだけなのです。
 
同様に人間の「闘争」にも「善悪」はないと、私は考えます。
人間にあるのも「一生懸命」だけ。
「一生懸命」に生きているからこそ相手を攻撃するし、相手を憎みます。
 
ですから「闘争」の当事者には、相手を「悪」と信じる権利はあると思うのです。
しかし「善悪」は当事者間だけに存在する幻だと、私は考えます。
ですから例えば、
当事者を飛び出した集団の中で、
この人は「善」あの人は「悪」と、決定づけられるものではないのです。
 
哲学者ニーチェの言うように、
やはり「善悪」の正体は「ルサンチマン自己憐憫)」に過ぎません。
ルサンチマンについて詳しくは、過去ブログをどうぞ)
 
「善悪」に力を持たせてもいけません。
「善悪」に力を持たせるから、
ISISの無差別テロや残虐行為が起きるし、戦争だって起きるのです。
 
人類に必要なのは、「善悪」の判断ではありません。
必要なことは、「善悪」が幻であることを知ることなのです。
しかし歴史上人類は、パラノイアと呼べるほどに「善悪」に偏執してきました。
 
そこにあるのは、「生命」の健全な「闘争」だけなのです。
そこから、「善悪」という不健康な火花を飛ばしてはいけません。
 
「善悪」は、人々に感染するマインド・ウィルスです。
(マインド・ウィルスに詳しくは、過去ブログをどうぞ)
 
これまでの「考察」を通じて、
私自身は「善悪」という観点を捨てようと決意しました。
考えてみれば、お互いが「生きる」ために行う「闘争」は至極健全なことであり、
どちらかが「善」で、どちらかが「悪」ということも、ないでしょう。
 
ただし「闘争」による被害は、最小限にすることが望ましいと考えます。
そこは「理性」を獲得した人類が代表して、
よい「知恵」を模索していくところではないでしょうか?
 
しかしながら、
今までのところ人類は「闘争」の被害を最大化する方向にばかり動いてきました。
その元凶が「善悪」です。
 
戦争は、「闘争」によって起こるものではありません。
戦争は、「善悪」をこじらせることで起こるのです。