ゼロベースの「幸せ」

人は、日々生きているだけで「幸せ」って思うことができるのでしょうか。
 
私は可能だと考えます。
 
それを理解する考え方が、
「夜と霧」の著者であるヴィクトール・E・フランクル博士の提唱するフランクル心理学です。
 
博士は、「幸せ」の3要素を「体験価値」「創造価値」「態度価値」としました。
人間が「幸せ」を感じる源泉は、3つあると言うのです。
 
ウィキペディアにわかりやすい説明があったので、引用します。

フランクルによれば人間が実現できる価値は
創造価値、体験価値、態度価値の3つに分類される。
創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値である。
仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。
体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。
芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、
あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。
態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。
病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、
楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、
その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。
フランクルアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、
人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験した。
フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視するのである。

「創造価値」「体験価値」の2つは、イメージしやすいと思います。
しかし、「態度価値」は少し難しいです。
それは、私がそういった「態度」を有していないからかもしれません。
 
私は、この「態度価値」が「幸せ」の鍵だと考え、
過去ブログでも「考察」を行っています。
 
そこでの結論は、「人生」に「意味」を感じられるかどうかです。
上記引用文に、
「態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である」とあります。
「運命」とは何かと言うと、「人生」に「意味」を感じることだと私は想うのです。
 
「人生」に「意味」なんてないと考える人は、
ネガティブな出来事に出くわしたときの抵抗力が低いと推測します。
下手したら、自殺もあるでしょう。
「生きる意味」を持っていなければ、
「苦しい局面」で「死にたい」と考えることは普通のことだと考えます。
ネガティブな出来事と自分の人生を切り離して認識することができないからです。
 
しかし「運命」というストーリーを肯定的に信じるならば、
「苦しい局面」にも「意味」が生じます。
例え地獄のアウシュビッツの中にあっても、自分の「人生」は環境とは別です。
自分の「人生」は、自分の支配下にあると信じることができた時、
そこに「態度価値」が現れると考えます。
 
人に指図されずに、自分の「人生」は自分で決める。
そして、その結果を受け止める。
どんな環境下にあっても、自分の選択を放棄せず、
最後まで自分の責任の下に、自分の判断を行使する。
 
こういった態度を採ることができれば、
ゼロベースの「幸せ」が確保できるのではないでしょうか。
 
自分の「幸せ」を、他人や環境に求めてはいけません。
「生きる」ということの「意味」を理解すれば、そこに「幸せ」が見えてくるのです。
 
「この世に生を受けたこと、それが最大のチャンスじゃないか。」 byアイルトン・セナ