「態度価値」とは、「人生」の主人になること

ユダヤ人としてアウシュビッツに収容され、
その地獄の環境における人間観察を描いた「夜と霧」という世界的なベストセラーがあります。
まだ読まれていない方がいらっしゃいましたら、
是非一生に一度は読むことをオススメする本です。
この本は1991年のアメリ国会図書館の調査で
「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入っています。
 
この「夜と霧」の著者であるヴィクトール・E・フランクル博士は、
アウシュビッツに収容される前に、
一本の論文を執筆していました。
「収容所へ送られると死が待っているに違いない。
 だとすれば何としてでもそれまでに、
 自分の生きた証であるこの著作を仕上げなければ・・・」
このような想いで執筆を行っていた彼ですが、
この論文が世に出る前に、彼はアウシュビッツに収容されてしまいます。
この論文を諦めきれない彼は、
上着の裏地に原稿を縫い合わさるなどして、原稿を護ろうとしましたが、
結局ナチスに没収されてしまいます。
それでも、彼は諦めません。
発疹チフスで高熱にうなされる中、彼は、
ある捕虜から40歳の誕生日プレゼントとして贈られた短い鉛筆と、
ある友人が収容所の監督から盗んできてくれたある用紙の裏側とを使って、
速記用の記号で、その原稿を再生し始めたのです。
なんという執念でしょう。
 
そして、幸運にもアウシュビッツを生き延びた彼は、
第二次大戦後にその論文を世に発表します。
彼の理論は、現在ではロゴセラピーという心理療法として世界に広く普及しているのです。
日本ではフランクル心理学とも呼ばれていますので、
このブログではフランクル心理学と呼称しています。
 
さて今回のテーマは、フランクル心理学で提唱されている「態度価値」についてです。
フランクル心理学では「幸せ」を生み出す要素を
「体験価値」「創造価値」「態度価値」の3つだとしています。
 
(以下、「態度価値」のウィキペディアから説明文を拝借しています)
「体験価値」とは、人間が何かを体験することで実現される価値です。
芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、
あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現されます。
「創造価値」とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値です。
仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たります。
 
そして、最後に「態度価値」。
これは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値です。
病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、
楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、
その運命を受け止める態度を決める自由が人間には残されています。
フランクルアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、
人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験しました。
フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視するのです。
 
この3つの価値を目指せば、人は「幸せ」になれるとフランクル博士は言っています。
実にシンプルですね。
この3つなら、「お金」をかけなくても実現できそうですし、
功徳とか善行とか小難しい「善悪」を考えなくてもよさそうに感じます。
あなたの「人生」の「価値」は、あなた自身が生み出していくものなのです。
誰かに決められるものではありません。
私もそうですが、
なぜか人には自分の価値を他者に決めてもらいたいという願望があるようです。
 
さあ、この「人生」において「体験したいこと」「創造したいこと」を
リストに描き出しましょう。
それらを実現していく「人生」こそが「幸せ」な「人生」なのです。
そして、そのことに向かって自分の時間(命)を使っていくことが、
人の生まれた目的ですらあるように想います。
 
しかし、大いに「体験価値」や「創造価値」を追求する一方で、
「態度価値」も習得しておきたいですね。
 
「体験価値」や「創造価値」は、
それが実現したときに初めて「幸せ」を感じることができます。
しかし「態度価値」は、常に感じる「幸せ」です。
それがアウシュビッツのような地獄の環境にあったとしても・・・
 
「態度価値とは何なのか?」と、私は考えます。
私は「態度価値」を理解して、獲得したいです。
「運命を受け止める態度を決める自由」とウィキペディアにはありますが、
これだけだと、私にはピンと来ません。
そこで「態度価値とは何か?」ということを脳の引出の中に入れておいて、
しばらく熟成をさせてみたのです。
 
「こういうことかな?」と、思いついたことがあります。
それは、「環境の奴隷にならない」ということ。
 
あれ、これって前にブログで描いたな・・・
あっ、北鎌倉の円覚寺の座禅会に行ったときに聴いた話にあった!
(過去ブログ:仕事の極意(「環境」の主人になる方法)
 
「環境の奴隷にならない」ということは、仕事の極意だと理解していましたが、
そうか「人生」の極意でもあるんだなと、私は再理解することができました。
 
北鎌倉の円覚寺で聴いたお話は、
ノートルダム清心学園の理事長をされている渡辺和子さんのお話です。
渡辺さんがアメリカで修道女をされている時に、
お皿のセッティングを言いつけられ、
「なんで私が・・」というような心持ちで仕事をしていたところ、
他の修道女が来て、
「あなたは何を考えてお皿を並べていますか?」と質問をされました。
これに対し、渡辺さんは「何も考えていませんでした」と返答をしたのですが、
修道女は「それは、もったいない」と話されたそうです。
「お皿をテーブルに置くときに、1枚1枚お客様の幸せを願って置いていたら、
 とても有効な時間になっていたでしょうに。」と。
 
このことは「仕事」の極意でもありますが、
「人生」の極意でもあった訳です。
 
生きていて「やらされている」ことなど、何一つありません。
食わないといけないから仕事をしているのでなく、
自分の選択の自由として、仕事をしているという事実。
それこそが「その運命を受け止める態度を決める自由」なのです。
 
イヤな仕事を頼まれたときに、それを受けるのも断るのも自由。
そして、その仕事をやらなければいけない時であっても、
自分がその仕事に対してどんな心の「態度」を採るのか?
仕事の部下や奴隷になるのでなく、
仕事の上司や主人になって、
自分の責任においてその仕事を主体的に行えば、
その仕事の時間は無意味でなく、意味のある充実した時間となります。
 
私達は「生かされている」のでなく、「生きている」のです。
「生きる」こととは何なのか?
そこの本質を「根本」からつかむことで、
私達は「人生」の主人になることができるのです。