ドラマ「裸の大将」から「コミュニケーション」を考える

19世紀、何十万人もの受刑者を独居房に収容する大規模な心理学実験が行われたそうです。
隔離によって自己の内面と神に向き合い、更生を促す試みでしたが、
まもなく多くの受刑者が正気を失うことが明らかになりました。(ソース
 
人にとって「他者」の存在は、必要なものなのでしょうか。
 
私は、「他者」なんていなくても平気だと思っています。
「他者」がいなくたって、考える対象はたくさんあるからです。
 
「他者」がいなくたって、「自分」はそこにいます。
「自分」とは何か?
これを考えるだけでも、一生かかります。
 
まあ、そんな強がりを言ってはいますが、
実際に独居房に閉じ込められたら、どうなるかはわからないですよね。
普通の人よりは、耐えられる自信はありますが。
 
「他者」とは何か?
ここがわからないと、本当に独居房に閉じ込められても大丈夫かどうか予測できません。
 
私は、いわゆる「コミュ障」です。
中学生くらいからずっとそうだったので、
先天的なものか、幼児期の体験によるものなのか、わかりませんが。
 
「他者」は苦手ですが、怖くはないです。
どっちかって言うと、面倒くさい。
 
「他者」と接するときは、相当なエネルギーを使うからです。
そして「他者」とのコンタクトにおいて、
成功体験よりも失敗体験の方が多いから、そのリスクにも身構えます。
 
「自分」にとって「他者」が必要かと言われると、そうでもないのですが、
自分を求める「他者」があったとき、または苦しんでいる「他者」があったとき、
そこに対して向ける関心はとても強いです。
 
それは、自分の自己投影かもしれません。
自分が昔やりたくてもできなかったことを、子どもにやらせたがる親のように、
昔の自分と同じように苦しんでいる人には、助ける人が現れて欲しいという願望。
 
私の「他者」への関心が、自己投影由来のものであるとするならば、
やはり私は真の「意味」で「他者」を求めていないのかもしれません。
自分の内面にはとても興味があるのに、
他者の持つ自分と異な部分には関心がなかったのです。
 
ただ遅ればせながらも、稀な「ご縁」の導きで、
最近私はわずかながらの「他者」とのつながりを持ち始めることができました。
そうしてその稀な「ご縁」は、
自分に不足しているものを教えてくれる有り難い存在になったのです。
 
自分と異なるからこそ、見えるものがあることに気づきました。
自分の背中のように、自分の目だけでは見えない自分というものがある訳です。
 
このことは、ニホンザルのグルーミングに似ています。
自分ではできない毛繕いを、他者にやってもらうという行為。
 
これはあれだ!
仏教で言うところの「長い箸」のお話しだ!
アハ体験
 
詳しくは過去ブログを読んで欲しいのですが、
仏教のお話しで、死後の世界では人々は長い長い箸で食事を採るというお話しがあります。
その箸は長すぎて自分で自分の口に食べ物を運ぼうとしても、
どうしても口に届かないため、地獄の人々は食べ物を食べられず飢えに苦しむのです。
しかし一方で、極楽の人々は互いに長い箸でとった食べ物を、
「他者」の口に入れてあげるので、食事に困ることはありません。
 
この教えの意味するところは、
「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」ということです。
・・・と私は認識していたのですが、もう一つ重要な意味が込められていました。
 
それは、人は、全部一人でできないということです。
生きる上で、必ず「他者」の助けが必要となります。
 
この大切な観点の目を曇らせているのが、「お金」の存在です。
多くの大金持ちは、
きっと自分で自分のことは何でもできるという錯覚に陥っていると思います。
本当は、今日のご飯を苗からつくることすらできないのに。
今日食べているお肉の元となる牛を殺すこともできないのに。
 
というか、それは普通に自立していると信じている多くの社会人にも当てはまります。
もちろん、私にだって。
「お金」というものは、「他者」への感謝を消し去る毒を持っています。
 
「お金」を払ったら、当然な顔をして店の人が料理してくれたご飯を食べるのです。
そして下手をしたら「ごちそうさま」も言わずに、黙って店を出て行きます。
 
自分で自分のことがなんでもできるなんて、なんという恥ずかしい勘違いでしょうか。
 
ニホンザルは、「他者」の力を借りないと自分の背中の毛繕いはできない。
私達人間も、「他者」の力を借りないと生きていくことなんてできないのです。
 
そうか、なるほど。
「他者が面倒くさい」なんて、甘えでしかないんだな。
「他者」とのコミュニケーションは、まずは「他者」への「感謝」から始まるようです。
決して自分のために始めるものでは、ありません。
 
だからもしかして、
本当のコミュニケーションってそんなに難しくないのかもしれないのです。
「自分が満たされるために」とか「自分のよいように動いてもらおうとか」とか、
そんな利己的な目的のコミュニケーションなら、それは難しい技術が必要だと思います。
しかし、「他者」なしにはあり得ない「自分」の立ち位置を理解した上での、
「感謝」から始まるコミュニケーションなら、
そんなに高い技術が必要でしょうか?
 
私は、山下清画伯のことを連想しました。
山下清画伯のウィキペディアは、こちら
テレビドラマ「裸の大将」でしか画伯のことを知りませんが、
「裸の大将」が人々の「心」に灯した温かい感情は、
高いコミュニケーションスキルから生まれたものではないはずです。
私も含めて、コミュ障で悩んでいる人は、
人との本当のコミュニケーションとはなんぞや?ということを、
「裸の大将」を見て勉強した方がよいかもしれません。
そのドラマで画伯は、
おなかがすいたら出会った人たちから好物のおむすびをもらって食べていたのです。
そんな画伯ですが、
各地のいがみ合う人たちの人情を呼び覚まし、
最後にはみんな仲良く納まって大団円となっていきます。
(ドラマ「裸の大将」のウィキペディアは、こちら
 
そっか、コミュニケーション技術なんて重要じゃないんですね。
大事なのは、そこに真っ直ぐな「感謝」があるかどうかなのだと感じます。