「神」の存在を考える

「神」は存在するか?
 
もちろん、私にはその答えはわかりませんが、
今までいろいろ知識を仕入れたり考察する中で、私なりの意見は持っています。
 
まず、聖書に登場するような「全知全能」の神はいないと考える次第です。
 
「全知全能」の神は、私達人間や動物たちをデザインしたそうですが、
そのデザインをちゃんと見ていくと、行き当たりばったりな感じがします。
 
それは例えば、飛べない鳥を見たときです。
私は実家の庭に来ている鳩や雀を見ていると、前足がなくて可哀想だなと感じます。
人間が手でやっていることを、彼らは全てクチバシのみでやらないといけない。
しかし前足のない鳥たちには、代わりに翼があります。
「まあ、それならば・・」と納得もできるのですが、
ダチョウとかエミューとか飛べない鳥は、どうなんでしょう?
 
せっかくの翼も、空を飛ぶことには使っていません。
もしダチョウのデザインをした存在がいるならば、
そのデザインは非効率でありナンセンスです。
とても「全知全能」の存在が創ったデザインとは思えません。
 
人間のデザインだって、そうです。
人間の視界には盲点があると、学校で学んだと思います。
この盲点が生じる理由は、目の構造上の理由です。
神経のケーブルが網膜の前に出てしまっているため、
そのケーブルを束ねて脳に通す穴をつくらないといけません。
そのため、視界が一部欠損するのを覚悟の上、網膜の中央あたりに穴を開けているのです。

 
実は、軟体動物の頭足類(イカやタコの仲間)には盲点は存在しません。
彼らの視神経のケーブルは、ちゃんと網膜の裏側から脳につながっているからです。
(盲点のウィキペディアは、こちら
 
この盲点のことを考えても、
「全知全能」の神が人間をデザインしたとは考えられません。
我々人間ですら、
「この視神経のケーブルは網膜の裏から出した方がいいよね」と気づくことは可能です。
わざわざ撮影の邪魔をするような場所に、ケーブルは出さないのです。
 
という訳で、一から全てを創れるような「全知全能」の神はいないと、私は考えます。
しかし、
この世界が何者かのシミュレーションの場であると考える余地はありそうです。
シミュレーションなら、試行錯誤的に現れる非効率なデザインも不思議ではありません。
 
ただ、この「世界」を何者かのシミュレーションと捉えると、
じゃあそのシミュレーションをしている存在を創ったのは誰?となり、
根本的な解決にはならない訳です。
 
そこで私は、第三者のクリエイターがいるという考えを捨て、
目に見えない登場人物はいないと考える自己完結型の「世界」を想像します。
この「世界」にあるのは、「物質(エネルギー)」と「生命(魂)」と「情報」の3つだけ。
この3つだけで「世界」は回っていると考えています。
 
そして、私達が「神性」を感じる対象というのは、
架空の「神」ではなく、私達の内なる「生命(魂)」自身なのではないかと考える次第です。