決めたから、そうしている

「Why?」
 
これがわからないと、生きていて空しくならないでしょうか?
 
毎度挙げる例ですが、
ロシアの強制収容所では、
囚人にスコップで穴を掘らせてまた埋めさせる、
という意味のない労働を強いていました。
一生懸命に苦労して掘った穴を、すぐに埋めるということを繰り返すうちに、
人の「心」は壊れていくそうです。
 
想像してみて下さい。
家で一生懸命宿題をやって来てそれを先生に提出したところ、
それが読まれもせずに破られた場合、
「心」にどの程度のダメージが加わるのか。
 
穴を掘るにしても、宿題をするしにしても、
その作業にその人の相当の時間を費やします。
時間を使っているということは、その人の「命」を使っているということです。
 
しかし、その「命」を使って行った作業を無視される。
それは、その人自体が無視されたということになる訳です。
 
もちろんそんなことが起こらなければ一番よいのですが、
「人生」というものは、
往々にしてそういった辛いことが起こってしまいます。
 
毎回痛みを感じるのもよいのかもしれませんが、
ある程度経験したら、防御の術(すべ)を磨くのも一興です。
 
そのためには、常に「Why?」を自問することが重要だと考えます。
 
なぜ、自分は穴を掘っているのか?
「やらされているんだ!」という答えは表面的であるように思います。
 
やはり結果として自分が動いているのですから、
答えは受動的でなく能動的になるはずです。
 
また、「土が耕されるので、ここに将来生えるであろう植物にはよいことなのだ」と、
無理矢理答えを当てはめるのも違うように感じます。
後付けの理由は、本当の理由ではありません。
 
同じような理由で「誰かのために」という理由も胡散臭いです。
「誰かのために」という理由は美しいですが、
そこには何か誤魔化しがあるように感じます。
 
自分はなぜ穴を掘っているのか?
もっともっと根源の理由・・・
 
掘ると決めたから、掘っている?
宿題をやると決めたから、やっている?
 
その行動の「始まり」は、ここではないでしょうか?
強制収容所という極限の世界にいたとしても、
「掘る」以外の選択肢も採れると思います。
「逃げる」とか「立ち向かう」とか。
もちろんそれをやって失敗したら、痛めつけられるでしょうし、殺されるかもしれません。
なんなら「自殺」するという選択肢もある訳です。
 
でも「自殺」はしないと、決めたのです。
「生きる」と決めたら、次の選択が始まります。
「逃げる」のか、「立ち向かう」のか、「掘る」のか?
 
その中から「掘る」と決めたのです。
「痛い目に合いたくない」し、「生きて家族にも会いたい」。
 
自分で最善の選択肢を決めて、そうして掘っていると認識したとき、
せっかく掘った穴を埋めろと言われても、
もうそこには「意味」が生じています。
 
「痛い目に合わないために、掘ると決めた」
「生きて家族に会うために、掘ると決めた」
 
そのように考えることができれば、
「やらされている」と考える人よりも、「心」が踏ん張れると思うのです。
 
穴を埋めるのも、痛い目に合わないためにそうするんだと認識できます。
生きて家族に会うための大事な作業なのです。
 
上記の宿題の例で言えば、
「宿題は先生のためにやったんじゃない」
「自分でやると決めてやったんだ」と意識することができれば、
提出した宿題が読まずに破られたとしても、
そこから受けるショックは非常に小さくなると考えます。
 
私は、生きると決めたから生きている。
仕事をすると決めたから、仕事をしている。
誰かを支えようと決めたから、支えている。
 
このように日々を捉えたら、自分が被害者になることはないでしょう。
誰かのせいにして、被害者意識で生きるのはとても辛いこと。
 
こんな「人生」ですが、
私はこの「人生」を生きると決めたから、生きているのです。