我思う故に「価値」あり

あなたは「価値」という言葉の意味を尋ねられたとき、
それを答えることができますか?
 
私は日常で散々「価値」という言葉を使っていながら、
その意味を明確に言語化することができないことに気づいたのです。
 
よく考えると私は「価値」という言葉を、フィーリングで使っていました。
 
ウィキペディアで検索した「価値」の意味は、以下の通りです。

価値(かち、value)とは、
或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、
人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、
あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとって
プラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。
殆どの場合、物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質、もしくは重要な性質や程度を指す。
何に価値があり、何には価値がない、とする
ひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。

 
ふむふむ。
要は、「個人の欲」を満たしたり、「社会の要求」を満たす、ものということですかね。
ただし、後半の「価値観」の説明にあるように、
「個人の欲」であれ、「社会の要求」であれ、
その判断は個人の考えに委ねられます。
 
だから、中国共産党にとって一党独裁は「価値」であるのに対し、
民主主義国家にとっては、一党独裁に「価値」がないとなる訳です。
 
そのように考えると、「価値」って絶対のものではないことがわかります。
 
例えば私が、ワイドショーの芸能人のニュースなんて「価値」がないと、
他の人に押しつけるとしたら、それはとんだ誤りです。
 
当然テレビ局は「価値」の需要を見込んでいるから、
芸能人の情報を流すのでしょうし、
実際に多くの人が「価値」を感じて視聴しているのだと思います。
芸能ニュースは、一定数の「個人の欲」を確かに満たしているのです。
 
さて、私を含めた多くの人が「価値」に対する誤解をしているように思います。
それは、「価値」が高尚なものだという誤解です。
 
「価値」とは、単に「個人の欲」や「社会の要求」を満たす概念に過ぎない。
私のように「価値」が高尚なものと勘違いしていると、
自分の「価値」を人に押しつける結果になってしまいます。
 
「芸能ニュースなんて見たって、しょうがないよ!」
「ほら、こっちの動物ドキュメンタリーの方が、よっぽど価値があるよ!」
 
ああ、「価値」に絶対などないのです。
全ての「価値」は、個人の考えから生まれます。
 
「我思う故に価値あり」
 
さて「価値」とは、生命活動の結果生まれる「意味」の一つです。
アメーバにとって、
食べられるものには「価値」があり、食べられないものには「価値」がない。
 
「生命」と「物質」の違いは、「目的」の有無です。
「物質」が、「自己複製して増殖する」という「目的」を持った時点で、
それは最初の「生命」になりました。
 
「はじめに目的ありき」
 
「価値」とは、そんな「目的」を持った「生命」に生じた「原初」の概念です。
脳という器官ができるもっともっと前から、「価値」はそこにありました。
 
「生命」は、「価値」に向かって、自身を進化させてきたのです。
そしてこれからも「生命」は、「価値」に向かって進んでいきます。
 
もちろん「人間」も。
私も、あなたも、他の人も。
 
そう考えると「価値観」とは、その「生命」が進む方向だと言えるでしょう。
だから、ミミズだってオケラだってアメーバだって「価値観」を持っています。
 
そして私には私の「価値観」。あなたにはあなたの「価値観」。
全ての個々に、それぞれの「価値観」がある訳です。
 
「価値」や「価値観」は、決して高尚なものではありませんが、
個々の「生命」にとって「存在理由」となる、
崇高な、ある意味不可侵の概念であります。
 
ですので、もちろん自分の「価値観」が重要であるのと同様、
他者の「価値観」にも敬意を抱いて尊重しなければいけないと考える次第です。
 
自分の「価値観」を押しつけて、
他者の「価値観」を変えようなんて傲慢なこと。
できるのは、他者の「価値観」を知るようにして、
自分の「価値観」を変容させることぐらいです。
 
「価値観」に優劣はありませんが、
「幸せ」になれる「価値観」と、「幸せ」になれない「価値観」というものは、
あると考えます。
 
自身の「価値観」をどうしたいか?なんて、その個人の判断ですが、
私は自分の「価値観」を、「幸せ」になれるものに変えていきたいと願う次第です。