「仲間」の定義

私は、「なんとなく」というのがダメなたちです。
頭の中で明確にイメージできないと、腑に落ちません。
 
例えば、自分というものの存在が「なんとなく」では、イヤです。
自分なりに、頭の中で納得できていないとモヤモヤします。
 
同様に、世界とか生命とか。
「まだ、未解明です!」というままで放置するのは、とても気が引けるのです。
 
世界とか生命とか自分とか、そこに根ざして私は生きているというのに、
それらの正体を、私は知りません。
 
ある意味、それはとても恐ろしいことです。
例えるなら、何者かに拉致されて、全く知らない場所に連れてこられた上に、
記憶まで消去されて、その場所に放置されるというような、
そんな過酷さや無慈悲さが存在するように思います。
 
だから私は、懸命に知ろうとするのです。
 
世の中には「なんとなく」が、多すぎます。
例えば「仲間」という概念。
あなたは、誰が「仲間」で、誰が「仲間」でないか、明確に定義できますか?
 
相手に「仲間」だと言われたから、「仲間」ですか?
自分のために動いてくれたり、自分の話を聴いてくれたり、
自分に利益をくれる人が「仲間」ですか?
それとも、自分を必要としてくれる人が「仲間」ですか?
 
私も含めて、「なんとなく」「仲間」というものを認識している人が多いと思います。
 
しかし「なんとなく」で「仲間」を定義すると、痛い目に合うと私は考える次第です。
例えば「仲間」だと思っていた人に裏切られたという経験は誰にもあるかと思いますが、
本当にその人は自分にとって「仲間」だったのか?
 
新興宗教では、「仲間」意識が集客や統治の要になります。
そういった道具で使われる「仲間」という概念は、真の「仲間」と呼べるのか?
しかし、一般社会から隔離した非現実的な空間で生まれる真の「仲間」関係が、
生まれる可能性も十分にあるかもしれません。
 
何をもって「仲間」と定義するのか?
この定義を自分なりにできていないと、怖くないですか?
 
「仲間」の定義にもよりますが、
「仲間」と認識した人には、自分の心理的弱みをさらけ出すリスクがあります。
だから「なんとなく」「仲間」認定するというやり方では、事故を呼びそうです。
自分なりの定義づけがあれば、事故のリスクは減るでしょうし、
失敗したとしても定義にフィードバックすれば、次に活かせます。
なにより失敗しても、相手のせいにせず、自分に原因を求めることができます。
 
「なんとなく」の怖さは、それで失敗したときに、
他者や環境のせいにしてしまうことです。
 
そこで私も、自分の腑に落ちる「仲間」の定義(仮説)を考えました。
 
同じことを一緒に笑える関係であること。
 
この定義は、動物行動学の書籍を読んでいて得た見解です。
 
まだまだ脇の甘い定義かもしれませんが、
一応たたき台ができたので、後はそれを磨いていくことにします。
 
この文章を描いていて思ったのですが、
「なんとなく」が苦手な私は、「なんとなく」「仲間」をつくることもできなかった。
 
今回定義づけをしたことで、「仲間」をつくる心の準備ができました。
まずは、一緒に笑いあえる人を増やしていきたいと願う次第です。
 
そして定義づけすることで、生まれたもう一つの効果があります。
それは、ああこの人とは「仲間」だったんだなと、腑に落ちて実感できたことです。
 
そのことは、本当によかったなと「心」から想います。