「逃げる」とは?

私は、時々「逃げ」に襲われます。
そういう時は、活動するモチベーションが下がり、
何もしたくないという気持ちになるのです。
 
つい先日もそういう状態になってしまったので、
「逃げ」の本質を解明したいと思います。
 
「逃げ」とは何か?
こういった複雑なことを検討するときには、シンプルな雛形に戻ることがベストです。
 
今回は、極端な環境の乳児が見せる行動に、その原型を求めます。
 
一昔前の孤児院で保育され、十分な社会的接触を奪われた子どもには、
ある障害が現れるのだそうです。
そのような子は、自分の周囲の刺激の状況と積極的に対決する能力を失うばかりでなく、
あらゆる外界の刺激から何とかして逃れようとします。
顔を壁へ向けて腹ばいになるそうです。
 
「顔を壁へ向ける」
 
前回のブログでも描きましたが、
この極端な行動は、
このような過酷な環境下の乳児のみに見られる現象ではないと考えます。
 
私達大人の行動の中にも、見られる現象ではないでしょうか?
例えばボーッとテレビを観ていたり、
ボーッとテレビゲームやスマホゲームをやっている時には、
私達はジーッと壁を見つめています。画面という「壁」を。
 
上述の乳児の場合の「逃げ」の構造は、こうです。
(1)自分の周囲の刺激の状況と積極的に対決する能力を失っている
(2)その結果、あらゆる外界の刺激から何とかして逃れようとする
 
このような構造は、大人にも普通に起こることだと考えます。
(1)職場や周囲の環境が、自身の対応力を越えてしまっている
(2)その結果、あらゆる外界の刺激から何とかして逃れようとする
 
まあ私達大人の多くは「逃げ」と言っても、
四六時中テレビを観ている訳でもなく、
仕事に行く必要があるときはちゃんと職場に行き、
オフタイムの気を抜けるときとかに、じっと「壁」を見つめます。
 
おそらくそのレベルであれば、
自身のコントロール下にある健全な「逃げ」です。
 
健全な「逃げ」と書きましたが、
私自身はその「逃げ」の先に「幸せ」があるとは思えないので、
なるべく「逃げ」の時間を消去していきたいと考えています。
 
話を「逃げ」の構造に戻しますが、
乳児の事例を見ると、結局「逃げ」とは、
「自身の外界への対応能力」と「外界の困難度」とのバランスで決まりそうです。
すなわち、
「自身の外界への対応力」>「外界の困難度」であるならば「逃げ」は起こりませんが、
「自身の外界への対応力」<「外界の困難度」である時に「逃げ」の発生条件が揃うと。
 
ならば「自身の外界への対応力」を意図して伸ばしていけば、
非生産的な「逃げ」の状態に陥るリスクは減少していくと考えられます。
 
そして、もう一つ。
「外界の困難度」を下げる努力も現実的です。
もちろん外界の強さをいじることはできませんが、
タスクの「見える化」によって、
「処理不能!」と判断していた外界を「処理可能!」な敵に変更できます。
 
このように「逃げ」という現象の本質を見ていくと、
「逃げ」への具体的な対処方法も見えてくると考える次第です。
 
「逃げ」を回避することは、精神論では不可能だと考えます。
壁を見つめている乳児に、
「こら!壁ばかり見つめないで、こっちを見ろ!」と叱責しても意味がないのと一緒です。
精神論とは、自分で自分を叱責する行為に過ぎません。
叱責で、自分の中の子どもや大人は動くかもしれませんが、
自分の中の乳児は動かないでしょう。
 
私は「逃げ」はなんら「幸せ」に向かわない回避すべき問題行動だと考えます。
「逃げ」とは毒であり、
「逃げる」ということは、
せっかく価値のある自分をゴミ箱に入れるようなとてももったいない行動です。
 
「幸せ」を目指すなら、確実に「逃げ」への対策を検討する必要があります。
私はこのブログで、しばらく「逃げ」について「考察」するつもりです。