「逃げるハイド」
しばらく、ブログを描けていませんでした。
「逃げ」の状態から抜け出せなかったから。
今は、抜け出せる糸口が少し見えたような気がするのですが、
「逃げ」というものはしつこくて、
なかなか自分をつかんだ手を離してくれません。
そして、首尾良く抜け出せても、
振り返ると、「逃げ」はいつもすぐ後ろにヒタヒタと迫っているのです。
「逃げ」から、いつまでも逃げ切れないのは、
「逃げ」というものが、
外部の悪魔ではなく、内なる自分自身だからなのだと思います。
「ジキル」と「ハイド」の、「ハイド」です。
認めたくない、受け入れたくない、自分です。
私は、「逃げ」ている自分を許容できない。
そんな怠惰で弱い自分を、許せません。
ですが拒絶すればするほど、
小説「ジキルとハイド」よろしく、
「ハイド」は自分の体を強引に乗っ取ろうとする訳です。
(ジキルとハイドのウィキペディアは、こちら)
小説「ジキルとハイド」では、「ハイド」は「ジキル」よりも小柄な姿をしています。
その理由は、
善の部分に隠れ人生経験の少ない悪の精神が具現化したものが「ハイド」であるからです。
・・・と、小説では書かれています。
私の中の「逃げるハイド」も、きっと精神年齢は幼いだろうと予想します。
なぜなら、逃げている状態に陥っているときには、
食べたりネットしたりゲームしたり、「快」に邁進し、
そして盲目的に「不快」から逃れようとする、思慮のない状態だからです。
そんな「快」と「不快」だけの状態がヤバイことを、
自分の中の「ジキル」は知っています。
しかし、「逃げるハイド」は、
「ジキル」の意思を完全に無視して、破滅的刹那的な行動を続けるのです。
小説「ジキルとハイド」のジキル博士の苦悩が、少しわかるような気がします。
小説「ジキルとハイド」の結末は、自殺でした。
はてさて、「逃げるハイド」を抱える私の結末は、どうなることやら。
もちろん自殺という極端な道を選ぶ気は毛頭ありませんが、
ジキル博士の苦悩を、一生味わい続けるのもイヤです。
小説の「ハイド」は、殺人という絶望的な状況を生み出します。
それに比べれば、私の中の「逃げるハイド」の生み出す状況は、まだ可愛いものです。
ジキル博士は、自分の中の悪を分離して、より善い自分になるため、
「ハイド」を生み出しました。
悲劇の発端は、そこです。
私も、自分の中の弱さを分離して、より強い自分になろうとしている節があります。
そんなことをしたら、
弱い自分は「ジキル」のコントロールから外れて、
「ハイド」として好き勝手始めてしまうでしょう。
小説では、「ハイド」は「ジキル」の影で生きてきたから、
「ハイド」の人生経験が少なく、姿も「ジキル」より小柄であるとされています。
きっと「ハイド」氏は、その社会経験の少なさから、
殺人という分別のつかない行動をしてしまったのではないでしょうか。
であるならば、本当は「ハイド」を表に出して、
人生経験を積ませて成長させることが「正解」なのかもしれません。
さて私の中の「逃げるハイド」くんには、
どのような関わり方をしたらよいでしょうか。
小説のような悲劇にはしたくないので、
快楽主義者の「逃げるハイド」くんにも、
自分のパートナーとして表舞台で活躍してもらいましょうか。
「逃げるハイド」くんが、社会経験を積んで十分に成長すると、
私の予測では、俳優の高田純次さんのような、
愛すべきお調子者になるような気がします。
私の中で「逃げるハイド」くんは、「シャドウ」であるので、
実は高田純次さんのような無責任なキャラクターは嫌いです。
(シャドウについては、過去ブログをどうぞ)
しかしそろそろ、「逃げるハイド」くんを受け入れる必要がありそうです。
将来は、高田純次さんのような愛すべきお調子者になれるかな?