「得」を見つける

「得」という言葉は、
あまりよい意味で使われていないように思います。
 
「損得感情」という言葉があるように、
人情を無視したエゴイスティックな響きがあるからでしょうか。
もともと「得」にはそんなニュアンスはないと思うのですが、
他者でなく自分だけが「得」をするという、
自分勝手なイメージが何となくつきまといます。
 
周りに遠慮や配慮をする日本人にとって、
「得」という言葉は、多分少し使いづらい言葉です。
 
しかし自分の「得」を追求することは、
他者の利益を害さない限りは、
生物として生まれた者の当然の権利だと思います。
そして多分、生物としての義務です。
 
生物が「得」を追わなくなったら、
それは「死」を意味します。
「得」を追わない生物は、「死」が近い生物だけです。
全ての生物は、基本ハングリーなのだと思います。
 
ただ人間のみが、「得」を追わなくても生きていけるのです。
 
しかし一個の生物として「得」を追わないことは、
とても不健全なことだと私は思います。
それは、「生きる」ことの放棄です。
 
ただし「欲」と「得」は、違います。
「欲」を追求することが、
必ずしも「得」につながる訳ではないのです。
そこの区分は、
人間の知性や理性の役割だと思います。
 
「欲」や「得」は、「生きる」上でのガソリンです。
ただ「欲」は、ディーゼルエンジンのように環境への負荷が大きい。
それに対して、「得」は通常のガソリンエンジンのように、
環境への負荷は「欲」ほど大きくなく、前に進むエネルギーを生み出してくれます。
 
「得」をうまく活用することが、生きる上での定石であると、私は考える次第です。
 
その他に、「利他」という未来のエンジンもあるのですが、
これは私の中では、まだまだ実用レベルに達していません。
 
とにかく前に進むなら、今時点私が使うガソリンは「得」なのです。
 
例えば、職場で業務終了後に日報を書いているのですが、
その日報を書くガソリンとして、私は以下のような考え方をします。
「日報は上司に自分が何をしているかを知らせるツールであり、
 これを書くことで自分を守ることができる。」
そう考えると、日報を書く気力を確保できます。
 
最近、なかなか更新できないこのブログですが、
このブログを書こうとする気力も、
「得」というガソリンによるところも大きいです。
 
「このブログを描くことは、自分の表現力を磨くことに役立つ。
 それに、自分が何をしたいのか、自分とは何か、
 描き続けることでつかめるような気がする。
 あわよくば、世界の真理に多少なりとも近づけるかも。」
そんな風に考えると、ブログを続けようという気持ちが湧いてくるのです。
 
大事なのは、物事に潜む「得」を確認すること。
これをやることが、自分にとってどう「得」なのか考えることが大事です。
その「得」を意識することで、前進するエネルギーが生まれると考えます。
 
よく「勉強って、どうして必要なの?」という質問がありますが、
それに対する答えは、とてもシンプルです。
 
「それは、あなたにとって「得」だからだよ」
 
何が「得」なの?と聴かれたら、
「それは自分で考えなさい」ということです。
 
極論すると、全ての物事には「得」が潜むと、私は考えます。
ですので、まずやることは、
原石の中に潜む「得」という宝石を識別すること。
そしてその「得」をガソリンに、物事を推進するのです。
 
自分の生活の中の「得」を再認識しましょう。
生物とは現金なもので、
「得」とわかれば、そこにエネルギーを供給してくれるのです。
 
「得」の見つけ方は、屁理屈でも構いません。
「あの嫌な人と顔を合わせなければいけないのは、
 反面教師というものを心に刻んで、
 自分が優しくなるために必要なんだ」とか。
屁理屈でも何でも、「得」と感じればエネルギーが湧いてきます。
 
逆に「損」と考えると、たちまちガス欠です。
普通の生物なら、そこから逃げます。