「常に今から」

「世界五分前仮説」というものがあります。
哲学における懐疑主義的な思考実験の一つで、
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルによって提唱された
「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説のことです。
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そんなことを言われても普通の反応は、
「世界が5分前に始まった?意味がわからない。」となると思います。
なぜなら、30分前も昨日も一昨年も、
私達は自分の目でこの世界を見ているのですから。
 
ところが、ラッセルはこう言います。
「5分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない。
 なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、
 5分前に世界が始まったのかもしれないからだ。」
 
そう言われて、何か反論を返せますか?
 
SF映画のような話ですが、
客観的な反論をすることはできないはずです。
私達は個人的で主観的な体験としての話しかできないのです。
 
「世界五分前仮説」は、「因果律」への懐疑でもあります。
因果律」とはインド哲学や仏教の基本にもなっている概念で、
全ての結果は、何かしらの原因から生じているという考え方です。
 
例えば、私達は木の年輪を見て、
節が12個あるから、
この木は芽生えて12年目だと判断します。
しかし、日頃の経験から無意識的にそれを前提として思考しているだけで、
本当に12年前の過去にこの木が芽生えたかどうかは、わからない訳です。
木と話すことができれば、
「あなたは何年前に生まれましたか?」とインタビューしたいところですが、
当然その記憶だってつくられたものかもしれません。
 
「今」年輪が12個刻まれているからと言って、
「過去」を断定することは誰にもできないのです。
同様に、「今」私がこの「世界」を体験しているからと言って、
「過去」も同様に私がこの「世界」にいたかどうかは誰にもわかりません。
 
しかし私達は、当たり前のごとく「過去」を信じているのです。
その信仰は、とても強く強く擦り込まれています。
 
今目の前に再現することもできない「過去」なんて、
私達の「記憶」もしくは「妄想」あるいは「幻」に過ぎないのに。
 
しかし「世界五分前仮説」は、私達に教えてくれます。
「過去」に縛られるのも自由だけど、
「今」が「過去」とは別だと考えても全く差し支えないのだと。
 
そのように考えたとき、
私は「過去」からの束縛の縄を少しゆるめようと感じました。
 
「過去」の記憶情報は前任者からの引き継ぎ資料程度の参考情報とし、
「常に今から」ベストの判断を心がける。
その行動習慣が未来の可能性を開拓し、
より豊かな「人生」の実りを約束してくれるものだと、私は考えています。