「責任」とは

私は、様々なことをネットで調べます。
未知の領域、興味のある分野、知っているつもりのこと。
 
たいていの場合、
ネットの情報は、私に予想以上の知的興奮を提供してくれます。
 
知っているつもりでも調べてみると、
たくさんの発見があるものです。
むしろ、知っているつもりのことにこそ盲点があります。
ハッとするような発見が潜んでいることが多く、調べ甲斐のある領域です。
 
今日は「責任」について、調べてみようと思います。
「責任」という意識は、
仕事をしていく上で、
そして人として生きていく上で必要な感覚ではないでしょうか。
 
私は、「責任感」がある方だと自認していましたが、
果たして本当にそうなのか?
「責任」というものを、改めて調べ、考察したいと思います。
 
まず、ウィキペディアを見てみましょう。

責任(せきにん、英: responsibility)とは、
元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味している。
ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、
これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が
行為者にあると考えられる場合に、
そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、
法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。
何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。

従来より、日本社会においては「責任」という概念・語がよく理解されておらず、
本来のresponsibilityという意味とはかなり離れてしまって、
義務という語・概念と混同してしまったり、
義務に違反した場合に罰を負う、という意味で誤用してしまう人も多い。
あるいは、もっぱらリスクを負担することにのみ短絡させている場合もある
(部分的には重なるが、同一ではない概念である)。

 
おっと!
いきなり発見がありました。
「responsibility」という英語を日本語にしたのが「責任」という言葉とのこと。
しかし「response(反応・応答)」という言葉に対して、
どうして「責」や「任」という漢字が訳語として使われているのでしょうか?
 
ネットの他の情報調べると、面白い記事を見つけました。
「文藝yaminave 〜なんてったって文弱!〜」というブログの
責任の語源と責任論」という記事です。
 
この記事によりますと、
「Responsibility」に責任という訳語があてられたのは、
法律の整備が整った明治二十年頃だと言われていますが、
「責任」という漢語は昔からあったのだそうです。
 
ですから「Responsibility」=「責任」ではなく、
もともとそれぞれが独立した言葉であったことを認識する必要があります。
現在我々日本人が使っている「責任」という言葉は、
英語の「Responsibility」と漢語の「責任」の"あいのこ"である訳です。
 
「責」という漢字には、
例えば人の失敗を「責(せ)める」というような、ちょっと嫌な使い方があります。
また「責(せ)め」という言葉は、「義務」という意味を含みます。
そして「任」という漢字は、
大辞林によると「課せられた仕事。果たすべき役目。」という意味になります。
 
漢字本来の意味だけで考えると、「責任」って引き受けたくないですよね。
「押しつけられた仕事」って感じがします。
 
次に「Responsibility」です。
「Responsibility」の文字面だけ見ると、
「何かに対して応答すること、応答する状態」という意味しか思い浮かびません。
しかし、それがどうして「責任」という言葉につながるのか?
 
これについて、またまたネット上に興味深いブログ記事を発見しました。
「道の途中で。」というブログの「責任とresponsibility」という記事です。
 
このブログから引用します。

さて、タイトルのresponsibility。
この単語、周知のようにresponseから派生しているわけだけど、
「応える」の意味を持つ動詞が、なぜ名詞化することで「責任」という意味になるのか。
ここにもまた、キリスト教的な思想が反映されている。
キリスト教では、神は人間に様々な「すべきこと」を課し、
それらを行うことで最後の審判において天国に行くことができる。
つまり、人々は神の要求に「応え」なければならない。
これが、responsibilityの語源である。

ほうほう、なるほど。
人々が神の要求に応えることは「すべきこと」であるので、
「responsibility」という言葉には「義務」的な意味が付加されるのですね。
 
なんかこんな風に「責任」という言葉を紐解いていくと、
はたして「責任感」を持っていることって、
本当に偉いことなのかなと思っちゃったりします。
単なる奴隷根性じゃないの?って。
 
しかし、人々は何かに属さないと生きられない存在です。
人は、一人では生きていけません。
 
ですから、自分だけの欲求のみに従って生きることは不可能であり、
属している集団や対象に対して、何らかの役割を担う必要が出てくる訳です。
 
「責任」というものを考えるとき、まず手始めに、
「自分はどんな集団に属していて、そこからどんな恩恵を被っているのか?」
という疑問から始めると整理がつきやすいと思います。
 
例えば、自分がキリスト教徒で、様々な精神的「恩恵」を被っているのであれば、
神に対する「責任」は正当なものであるはずです。
職場からお給料をもらっているのであれば、
仕事に対して「責任」を持つことは、立派なことです。
家族から生き甲斐や心の安らぎをもらっているのなら、
家族に対して「責任」をしっかりと持ちましょう。
 
一方で、「恩恵」を被っていない対象に対して「責任」を持つことは、
奴隷根性と言われても仕方ないと考える次第です。
 
あくまで「世界」は、持ちつ持たれつ、そして対等。
「責任」を持つということは、文字通りとても重い行為なので、
その提供先が正当なものであるか、一度整理することも大事だと考えます。
「自分が責任を果たすべきは、何に対してなのか?」
これをしないと、精神的奴隷のまま「人生」を終える可能性もある訳です。
 
現代日本では「責任」という言葉が、
人を縛る都合のよい言葉として一人歩きしている感があります。
まがいものの「責任」という言葉が溢れる時、
世の中は「無責任」で満たされるのです。
 
大物政治家、東京電力のような大企業。
「責任」を取らない人々や集団。
 
「責任」という言葉が、弱者を縛る都合のよい言葉でしかないから、
強者には無縁のものとなってしまっている。
 
強者になれば「責任」から免除される社会。
そういう社会では、
少なからぬ人々が「無責任」の状態を是とし、その状態を目指します。
 
しかし「無責任」の人々が増えれば、
社会は機能不全を起こし、やがて崩壊してしまう訳です。
 
以前日本では、「自己責任」という言葉が流行りました。
海外の危険地域に渡航した日本人がテロリスト集団に拉致された時に、
この言葉が声高に叫ばれた訳です。
 
私は「自己責任」論に理解を示すものの、
何か違和感を感じました。
 
キリスト教徒の方なら、
神からの「隣人を愛せよ」という要求に応じるために、
拉致された日本人のために祈りを捧げるところでしょう。
 
私は無宗教ですが、
「自己責任」という言葉を使う人々の
自らが「無責任の状態である」ことを当然のごとくひけらかすことに、
違和感を感じたのかもしれません。
 
政治家が「それは自己責任だ」と言いのけたとき、
じゃあその政治家は何に対して「責任」を追っているのだろう?と感じるのです。
もしかしたら、その強者である政治家は、
自らを何に対しても「責任」を負わないポジションにいると
誤解しているのかもしれません。
 
本当はこの「世界」に生きている限り、
万人に対して「責任」は発生するものなのに。