「私」は、「言葉」で創られる

脳科学の本を読んでいると、
人には「自由意思」がほとんどないことがわかります。
 
人が何か行動を起こすとき、
その人が「○○をやろう」と思う前に、
脳は先に動き始めているのです。
 
例えばボタンを押そうという考えを「意識」する前に、
脳は既に指を動かす信号を出していたりします。
 
私達の行動は、「意識」ではなく「無意識」から湧いてくる訳です。
 
この現象は、「受動意識仮説」と呼ばれています。
詳しくは、過去ブログをご覧下さい。
 
さてこの「受動意識仮説」は、
私達の常識的感覚からしたら、とても信じられないお話だと思います。
自分が思ったように、自分の体を動かしているのでなく、
実は自分の体は、自分の「意識」外から動かされているという話なのですから。
そして自分本体だと認識している「意識」は、
自分でそれをやっているように思わされているだけ。
まるで、裸の王様です。
 
では実際に体を動かしている正体は何かと言うと、
脳だけでなく体も含めた全ての細胞のネットワークという答えになるかと思います。
つまり「全体」です。
 
このことは、今私がブログを書いているときにも実感できます。
書く文章が頭の中で言語化される前に、既に指がタイプして文章が生まれている訳です。
 
「じゃあ、この「私」って感覚は偽物なの?」と感じる人もいるかもしれませんが、
そうではないと考えています。
 
この体を動かしているのは「私(意識)」ではありませんが、
この人生を体験しているのは、紛れもなく「私」だと思うのです。
 
クオリア」と呼ばれる、このいきいきと今を体験している生の感覚。
クオリアについては、過去ブログをどうぞ)
 
私達の体を動かすものは私達ではありませんが、
私達を体験しているのは紛れもなく私達なのです。
 
例えるなら、映画「時計じかけのオレンジ」のように、
体を椅子に固定され身動きできない状態でテレビを見せられているような状態。
私達は、この「人生」という作品あるいはアトラクションを、
体験させられているのです。
 
そのように考えると、私は少し安心します。
体を動かしているのは別人(?)だとしても、
体験している「私」はちゃんと存在しているんだなと思うと、嬉しいんです。
 
さてこの「私」という感覚ですが、
原始的な生物には存在しないと、私は考えています。
 
では、「生命」の進化のどのあたりから発生するのか?
それは、脳の発達度合いにもよるかと思います。
具体的には鏡像認知できる動物は、確実に「私」を持っているでしょう。
鏡に映っている自分を、自分と判断できる動物には、
ゾウやイルカやカラスや豚などがいます。
 
しかしそれらの動物よりも、
格段に明確に「私」を持てるようになった動物が人間です。
 
その差は何か?
それは「言葉」です。
 
「言葉」を使うことで、私達は「思考」を持つことができました。
 
「言葉」の用途は2つです。
1つは、外部との意思疎通。
そしてより重要なもう1つの用途が、「思考」のツールなのです。
 
想像してみて下さい。
もし「言葉」がなかったら、日常であなたの頭の中はどうなりますか?
 
「空白」です。
「思考」がない頭の中では、「感情」に大きく従う形になると思います。
 
すなわち腹が減ったら、食事を探す。
怖い存在から、遠ざかる。
眠いときには、眠る。
 
「言葉」が頭の中から消えたら、
「私」という概念は非常に原始的なものになると考えます。
そもそも「私」という「言葉」すら、
頭の中に思い浮かべることができない訳ですから。
 
さて、話を「受動態仮説」に戻します。
「受動態仮説」では、例えばボタンを押すという行動は、
「意識」でなく「無意識」が企画していると考える訳です。
 
同様に「思考」という行動も、元は「無意識」が企画していると考えます。
 
しかし「思考」という「行動」のみは、他の「行動」と異なり、
「私」が主導権を握るのです。
「思考」という「行動」において、初めて「生命」は、
「無意識(全体)」に打ち勝つ「意識(私)」を手に入れます。
 
その勝利の鍵が「言葉」です。
 
「無意識」が「思考」という「行動」を企画します。
そして「思考をしよう」という「種」が生まれるのですが、
その「種」は、「意識」という土壌で「言葉」を得て、初めて「花」を開く訳です。
 
「種」と「花」は、全くの別物。
ボタンを押すという「行動」を「無意識」が企画して、
そのままボタンを押すというシンプルな例とは、訳が違います。
 
ボタンを押すという「行動」では「無意識」が主導権を握っていますが、
「思考」という「行動」においては、
「無意識」が為し得ないことを「意識」が「言葉」を使うことによって為しており、
明らかに「意識(私)」に主導権があるのです。
 
そのように考えていくと、
「私」というものを実感できるのは「言葉」のお陰なのだということに、
思いが至ります。
 
そして「自我」という観点では、
人間とそれ以外の動物には大きな隔たりがあると私は予測するのです。
その飛躍は、「言葉」によってもたらされました。
 
おそらく「言葉」を持たない原始人の時代には、
人間と他の動物との隔たりはほとんどなかったはずです。
 
私達と他の動物を大きく隔てる要素は、
進化の度合いでなく「言葉」の有無であると、私は提唱します。
 
「言葉」=「意味」=「概念」=「情報」の世界に突入することで、
「生命」は、全く次元の異なる存在にまで高められたのです。