「頑張れない」よりも「頑張れる」方が、「人生」100万倍いい。

私が今まで生きてきて感じたことは、
「頑張れない」人生よりも「頑張れる」人生の方が100万倍いい、ということです。
 
頑張れているか、頑張れていないか、
私にとってそこが「人生」の大きな分かれ道となります。
「人生」の明暗を分ける、大きな大きな分かれ道です。
 
頑張れているとき、「人生」は充実します。
「生きる」喜びを感じられるのは、この時です。
 
一方で頑張れないとき、
「生きる」喜びを感じることは非常に難しいと思います。
そしてそこに集積するのは、「生きる」苦しみです。
 
外部評価の善し悪しも大事ですが、そこは重要ではありません。
頑張れていないときに、自身の内面がとても酷い状態になるのです。
内面的に、しおれていきます。
 
これが、私の率直な感想です。
 
ずっと「頑張れない」状況が続いていましたが、
ここ3日ほど「頑張れる」状況が続いています。
ずっと曇天が続く中、ようやく見えた太陽。
なんとか、この状態を維持したいと切望しています。
 
どうして「頑張れる」ようになったかを明確に説明することは、難しいです。
あえて言うなら、「頑張れない」状況に、ほとほと嫌気がさしたからなのだと思います。
そして、おそらくもう一つのエネルギー源は外部環境に対する危機感です。
「このままだと、ずっとこの状態から抜け出せない!」
 
そう思って簡単に抜け出せる沼ではないのですが、
必死にあがけば、「心」が楽になります。
これが「希望」というものなのでしょうか。
実際に抜け出せるかどうかはともかく、
「未来」を信じてあがくと、そこに「力」が湧いてくることは事実です。
 
「頑張ろう」とふっきったときに、一つ決めたことがあります。
それは、どんなものを犠牲にしても、「頑張れる」状態を手に入れること。
 
私の実感では、「頑張る」ためには、
自分が「こうしたい」という「美学」に向かっていることが大切です。
「美学」に向かわない「頑張り」は、「魂」を削るだけだと考えます。
 
どんなものを犠牲にしてでも、その「美学」に向かう。
それぐらいでなければ、真なる自分の「美学」とは呼べません。
 
犠牲にするとは、例えば「美学」に反する人々を「敵」とすること。
人が道をふさいでいるから、他の道を行くようでは、本当に疲弊するだけです。
 
時には「あなた、邪魔です」と伝えて、そこをどいてもらわないと。
 
私の中の「頑張れる」時とは、
「現在向かっている方向」と「魂の方向」が合致している時です。
 
だから「魂」の声にもっと耳を澄ましたいと思います。
自分とは、本当は何者なのか?
 
「頑張れない」時の苦しさを思えば、
「人生」とは「頑張る」ためにあると言っても過言ではないと考えます。
「頑張っている」時というのは、
「魂の方向」と「現実世界で向かっている方向」が一致している時だからです。