「科学」と双璧を成す「表現」という技術

この「世界」は、「物質」と「情報」に二分できる・・・と私は考えています。
 
目の前の「世界」には、「物質」の世界と「情報」の世界がある訳です。
「物質」の理解は、「科学」として進展しています。
「物質」は最終的に、「数字」あるいは「数式」で表すことができる訳です。
しかし直感でわかると思いますが、
「数式」には「意味」はありません。
 
「ふ〜ん、そういう数式になるんだ」で終わるのが「科学」です。
ですが「数式」までわかったら、
「科学技術」としてその「物質」を活用できるようになるのが「科学」です。
 
一方で「情報」への「理解」は、「科学」のように体系だって行われていません。
最も王道の手法は「哲学」です。
「哲学」は、この「世界」の「情報」の根幹的な解明を目指しています。
あとは、「心理学」や「文化人類学」なんかも「情報」の「解明」です。
 
他にも、「宗教」や「文学」や武道や茶道などの「道」。
様々なアプローチで人類は、目の前に広がる「情報」の解明を行ってきました。
 
「物質」は「数字」や「数式」に還元される一方、
「情報」は「文字」や「意味」に還元されます。
 
「哲学」も「心理学」も「宗教」も、
対峙する「情報」が「意味」として「解明」できると、そこで「理解」は終了です。
「意味」まで還元できたときに、人は「腹落ち」した状態になります。
 
ところで、私達の「自我」や「意識」あるいは「心」は、
「物質」でしょうか、それとも「情報」でしょうか?
 
私は、「情報」だと考えています。
なぜなら、例えば私達の体は新陳代謝により、
3ヶ月で全ての物質が入れ替わっています。
それなのに私達の「意識」は、もっと長い期間継続して存在している訳です。
 
ですから、私達の正体は「情報」だと、私は考えます。
 
さて前段の説明をしたところで、今日の本題です。
 
私は冒頭で、この「世界」は「物質」と「情報」に二分されると言いました。
この両者は、本来対等な関係であるはずですが、
現代の「科学」の時代においては、
「物質」への偏向が激しすぎるように私は思うのです。
 
松下幸之助さんは、
松下電器を立ち上げ、戦後焼け野原の日本に「モノ」をもたらした後、
「モノ」が豊かになった日本において、今後は「心」を満たす必要があると、
PHP研究所」や「PHP出版」、「松下政経塾」等を創設しました。
 
PHP出版」の書籍なんかは、今でもコンビニの書棚に陳列され、
悩める日本人の「心」を救っている訳です。
 
「哲学」に関する書籍も、よくコンビニで見かけます。
「物質」を解明する「科学」だけでは、私達は豊かになれないのです。
 
もっと「情報」(心)を解明する技術にも脚光が当たるべきだと、私は考えます。
 
例えば、盲目的に「宗教」をバカにする人がいますが、
真剣に自身の「世界」に向き合って理解しようとしている人に対して、
浅慮な侮蔑は、とても失礼だと感じる次第です。
 
例えば、毎週日曜日教会に通う敬虔なクリスチャンは、
毎週、自身の精神世界と向き合っています。
そして、自分の「心」の意味、この「世界」の意味を、
懸命に理解しようとしている訳です。
 
そういう、私達の根幹に根ざす根源的な取り組みに対して、
「科学的でない」という理由で、侮蔑するとしたら、
それはとても浅はかなことであると私は考えます。
 
「情報」(心)への対峙・解明は、
「科学」と双璧を成す、我々が行うべきタスクです。
 
「科学」は、「物質」を理解して、「物質」を操作して、
我々に物質的な豊かさを提供してくれます。
ですから、「科学」は偉大です。
 
一方で「情報」(心)へのアプローチの技術も偉大だと、私は考えます。
「情報」の「世界」は、「科学」とは別のルールが支配しているのです。
 
例えば、リンカーンの言葉が、キング牧師の言葉が、「世界」の運命を動かします。
感動する小説や映画、絵画、音楽等に出会えば、
私達の「心」は大きく動かされ、涙を流す訳です。
 
「情報」(心)の「世界」から、
「物質」の「世界」に直接作用するような「魔法」や「超能力」は、
この「世界」に存在しないと、私は考えます。
 
しかし、「情報」(心)の「世界」から、「情報」(心)の「世界」になら、
強力に作用を及ぼすことができる訳です。
 
私の頭の中では、
「科学」という素晴らしい技術と双璧を成す存在として、
「表現」があると認識しています。
「表現」こそが、もう一方の「情報」(心)の「世界」に作用する技術なのです。
 
ですから私はこの「世界」において、2つの技術の進展を祈っています。
1つは「科学」。もう一つが「表現」です。
 
「科学」も「表現」も、よい方向に活用することも、悪用することもできます。
 
「宗教」や「思想」も、「表現」という技術の一つ。
悪用もできる一方、よい方向に活用することも可能です。
 
「科学」を恐れる原始的な部族を見たとき、私達はそれをバカにします。
しかし「宗教」を盲目的にバカにする私達は、浅はかでないと言えるでしょうか?
 
もちろん「表現」を悪用している「宗教」は、悪い存在です。
しかし、もっと根幹に踏み込んで、「科学」に対して持つ「理解」と同じように、
「情報」(心)にアプローチする活動や技術にも、
重要な「意味」があると世の中の人が気づいてくれるといいな、と思います。
 
私もこのブログを通じて、
「探求」や「表現」を磨いていきたいなと考える次第です。