幸せの見つけ方(その3)

幸せの見つけ方。
今日は、フランクル心理学の観点からお話を進めたいと思います。
前回の「幸せの見つけ方(その2)」では、
犬飼ターボさんの「チャンス(PHP文庫)」から、
幸せとは、①経済②愛情③健康④精神の4つの領域を
バランスよく満たした状態であると書きました。
今回は、この4領域のうち精神を満たすためにはどうすればよいかについて、
ズバリの解答を提示したいと思います。
 
ヴィクトール・E・フランクルという心理学者をご存知でしょうか?
「夜と霧」という著書が、日本では有名です。
「夜と霧」では、ユダヤ人である彼が第二次大戦のアウシュビッツ施設を経験する中で
心理学者として、自身も含む収容されたユダヤ人達の心理を刻銘に書き綴られています。
アウシュビッツという凄惨な、それこそ生き地獄のような施設を舞台とした話ですが、
この書籍の中では、それでも絶望せずに人として生ききった人々が登場し、
「人にとっての幸せとは何か?」という根源的な問いに深い示唆を与えます。
日本でもベストセラーになった本です。
興味のある方は、みすず書房より「夜と霧 新版」が出ていますので、
読んでみることをお勧めします。
 
さて、以降の文章は、諸富祥彦さんの
フランクル入門 どんな時も人生には意味がある(コスモス・ライブラリー)」を
参照・引用しながら書いていきたいと思います。
 
ヴィクトール・E・フランクルには、
アウシュビッツに収容される前に、執筆中の論文がありました。
「収容所へ送られると死が待っているに違いない。
 だとすれば何としてでもそれまでに、
 自分の生きた証であるこの著作を仕上げなければ・・・」
このような想いで執筆を行っていた彼ですが、
この論文が世に出る前に、彼はアウシュビッツに収容されてしまいます。
この論文を諦めきれない彼は、
上着の裏地に原稿を縫い合わさるなどして、原稿を護ろうとしましたが、
結局ナチスに没収されてしまいます。
それでも、彼は諦めません。
発疹チフスで高熱にうなされる中、彼は、
ある捕虜から40歳の誕生日プレゼントとして贈られた短い鉛筆と、
ある友人が収容所の監督から盗んできてくれたある用紙の裏側とを使って、
速記用の記号で、その原稿を再生し始めたのです。
なんという執念でしょう。
 
そして、幸運にもアウシュビッツを生き延びた彼は、
第二次大戦後にその論文を世に発表します。
彼の理論は、現在ではロゴセラピーという心理療法として世界に広く普及しています。
 
専門家でもない素人の私が書きますので、誤りがあるかもしれませんが、
ロゴセラピーのエッセンスを以下に書いていきたいと思います。
 
ウィキペディアにも少し説明が記載されています。
上記ウィペディアには、このような表記があります。
 フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、
 「人生の意味を見出すこと」であるとする。 人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。
また、こうも書いてあります。
 それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
 
ロゴセラピーのロゴとは「意味」のことです。
「生きる意味」を見出すことで、
人は自身に価値を感じ、主体的に充足した人生を生きることができます。
逆に、自分自身が、あるいは自分の人生が無意味だと感じてしまった時、
人は無気力や絶望に陥ります。
山あり谷ありの人生の中で、生きることに意味を見出せない人々は、
どうしようもない人生の谷にぶつかった時、
その苦境が、あたかも自分の価値にお似合いのものであると考えてしまいます。
自分自身や自分の人生に「意味」を見出せない人々は、
環境や他者の価値観に従属する存在に成り下がってしまうのです。
 
アウシュビッツにおいても、容赦ない環境と支配者達に屈して、
自身の存在価値を無意味と感じてしまう人々がたくさんいたそうです。
そういった人々は、人間であることを、ある意味辞めてしまいます。
人々は無感動になり、昨日まで仲間だった人が倒れて死んでしまっても、
その死者からいかに食料や靴を奪うかということのみに頭を使い、
その人の死自体には全く興味を示さないような
人間としての尊厳が失われた状態に陥ってしまったのだそうです。
 
現在の日本においても、「負け犬のお前は無意味だ!」という風潮がはびこり、
そのような、人生からの意味の剥奪が、
無気力な人々の増加、鬱の蔓延、自殺の大量発生につながっていると考えます。
 
ですから、事態を好転させるためには、
人々がそれぞれ「生きる意味」を見つけることが非常に大事なのです。
このことは、過去のブログの記事でも書いている通りです。
 
 あなたは、自分の生きる意味を考えたことがありますか?
 
さて、ものすごい長文になってしまい申し訳ないです。
そろそろ、今回の記事のお題である「幸せの見つけ方」を
フランクル心理学の観点からお話していきたいと思います。
 
フランクルは、どんな時も人生には「実現されるべき意味」が必ずあって、
発見され実現されるのを待っていると言っています。
では、その「実現されるべき意味」はどのように探したらよいのでしょう?
「実現されるべき意味」を探すための指標として、
フランクルは「三つの価値の領域」を提示しています。
 
すなわち、「創造価値」「体験価値」「態度価値」の3つです。
以下にそれぞれを簡単に説明します。

  • 「創造価値」
    活動し創造することによって実現される価値のことです。
    例えば、その人になされるのを待っている仕事やその人に創造されるのを待っている芸術作品。
    私の場合は、小説やブログ、仕事等が創造価値となります。
  • 「体験価値」
    何かを体験することによって実現される価値のことです。、
    例えば、自然の体験や芸術の体験、誰かを愛することによって得られる体験。
    私の場合は、職場での人間関係から得られる体験、旅行で出会う景色や人々、
    小説や映画の鑑賞等が体験価値となります。
  • 「態度価値」
    自分自身ではどうしようもない状況、変えることのできない運命に直面した時、
    その窮状に対して、ある態度を取ることによって実現される価値のことです。
    例えば、死や病、生まれながらの体質や気質、容貌、生まれた環境。
    例え過酷な運命によって「創造価値」と「体験価値」を奪われてしまっても、
    運命に対してどのような態度を取るか、その運命をどう引き受け、
    そこから自分の人生をどう創っていくのかによって、得られる「意味」があります。
    例えば、どうしようもない苦難にぶつかった時、
    それを成長のための試練と捉えようとする考え方は、
    意にそぐわない人生にも「意味」をもたらすことができるのです。

 
ざっと「三つの価値の領域」を説明してきました。
これらが「生きる意味」そのものであり、幸せを見つけるための3要素となる訳です。
 
そうしたら、
1日24時間を可能な限り「創造価値」や「体験価値」で埋め尽くしてみましょう。
埋め尽くすことに、苦労は要りません。
なぜなら、世界には、
あなたによって「創造」されるのを待っているものや、
あなたによって「体験」されるのを待っていることが、
星の数ほど存在しており、そのことに気づくだけでよいからです。
 
 そう、あなたは世界に必要とされています。
 世界は、あなたの生きる意味に満ちているのです。

  
それから、併せてあなた自身の「態度価値」を見出しましょう。
あなたがさらされる運命には、何らかの意味が必ずあります。
あなたは世界にとって、どんな存在となりたいのか?
世界にとってのあなたの意味は何なのか?
あなたと世界が対等の存在となった時、そこに「態度価値」が現れます。
 
 (ただし、当事者が自分の運命に対峙する態度はこれでよいと思いますが、
  ストリートチルドレンの日記で書いたような
  他者のあり得ない地獄のような運命に対しては、
  無意味であり憎むべき存在だと感じています。
  そういった人々を少しでも助けることが私の生きる意味だと思っています。)
 
このようにして、これら「三つの価値の領域」を満たした時、
あなたの精神は幸せにつつまれるのです。
精神が幸せになるのに、外部要因は全く必要ありません。
例えば、今までの私は仕事のストレスを解消するために、
仕事帰りに深夜のコンビニでコーヒー牛乳とクリームパンを買っていました。
しかし、得られたのは幸せではなく体重と出費でした。
しかも、この前の健康診断では脂肪肝と診断されてしまいました orz
結局、深夜の軽はずみなストレス解消策により、
「精神」「健康」「経済」の3つを失う結果となってしまったのです。
 
 私の長年のダメダメ人生経験から言えることは、
 幸せになるために、快楽に手を出したり他者に依存するのは罠だということです。

 
さて、「幸せの見つけ方(その2)」でお話した幸せの4つの領域のうち、
「精神」以外の「経済」「愛情」「健康」をいくら手に入れても、
この「精神」がカラカラに乾いているようでは、
どうあがいても幸せを手に入れることはできません。
経済的に裕福なはずの芸能人が麻薬に手を出して、不幸のスパイラルに陥るのも、
「精神」のコンディションを良化する方法を持っていなかったからなのでしょう。
私は、4つの領域の中でも「精神」は特に重要であると考えます。
人生の中で運命の残酷な仕打ちにあったときに、
もしかしたら「経済」「愛情」「健康」は、あっけなく奪われるかもしれません。
しかし、「精神」の幸せは、
誰にも(それが運命であっても)奪うことができないのです。
そう、アウシュビッツのような地獄の中にあっても。