「人生はマラソンだ!」もしくは・・・

 「人生はマラソンだ!」
もう、覚えている人は少ないかもしれませんが、
プロ野球選手であり、その後芸能界でご活躍中の
パンチ佐藤さんが昔テレビでよく言っていた言葉です。
 
テレビで彼がこの言葉を発言する時は、
彼の独特の個性もあいまって、
一種のネタとして扱われることが多かったように思います。
 
ですが、この言葉は真実だと思います。
「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」と、
徳川家康も言っています。
つまるところ、日々は己との闘いという苦しみのうちにあり、
この苦しみに耐えてゴールを目指すことが、人生の正体であると。
 
ただ、人生をマラソンに例えると、気が滅入るのも事実です。
ラソンランナーは、ゴールにたどり着くまでは己との闘いの中にあり、
ゴールした後にようやく、大きな喜びや感動を得ることができる。
ラソンには、そんなイメージがあります。
生きている間はずっと走り続けねばならず、
人生の終わりである死の瞬間に、初めて人生は報われるものなのか。
そうだとしたら、日々走る必要性は理解できても、
人生とは恐ろしくストイックなものであるように思われ、
日々を楽しく生きることはとてもできそうにありません。
 
今年に入ってようやく、日々を走り始めた初心者ランナーの私にとっては、
人生をマラソンとして考えるのは、少々重いのです。
ラソンではなく、人生を以下のようなものであると考えた方が気楽に走れます。
 
 「人生は駅伝だ!」
一生走り続けるのではなく、一日一日を走りきるのです。
昨日の私、今日の私、明日の私、全て別々のランナーだと考えてみる。
昨日の私は、今日の私のために。
今日の私は、明日の私のために。
一日を走りきってタスキを渡す。
 
つまり私は毎日、朝起きて誕生し布団に入って死ぬのです。
布団に入って死ぬ瞬間に、一日を走りきった自分を振り返り、
「一日頑張ってよかった」と毎日温かい感動に包まれる。
 
他者のために頑張れるけど、自分のためには頑張れない私にとって、
上記の考え方は非常に都合がよいのです。
別人である明日の私のために、今日の私が頑張る。
うん、しっくり来ます。
 
そして、昨日の私の汗が染み込んだタスキを見て、
今日の私は、今日も一日頑張らねばと気持を奮い立たせるのです。
人生とは、個人種目ではなく団体種目。
それぞれのランナーのことをどれだけ大切に想うことができるか、
これがよい試合ができるかどうかの分かれ目となります。
 
であれば、布団に入って寝ることは、私にとって神聖な儀式となります。
徹夜は可能な限りしない。布団以外で中途半端に睡眠をとることもしない。
今後はこれらのことをしっかり守ろうと思います。
なにしろ、明日の自分のために、
一日を走りきった今日の自分の大事な大事な死に場所なのですから。
 
また以下の観点からも、私は人生をマラソンでなく駅伝と捉えるべきと考えます。
ラソンは勝者に関心が強く集まるスポーツです。
しかし、私が正月に観る箱根駅伝は違います。
勝者はもちろん敗者にもスポットライトが当てられます。
勝者の流す涙にはもちろん感動しますが、
敗者の流す涙も同じように観る人に感動を与えるものです。
私の目には、勝者の闘いも敗者の闘いも同価値に映ります。
 
30代になってようやく人生を走り始めた私のはるか先方には、
もっと早い時期に気づいて日々を走り始めた人々が、星の数ほどいます。
今から走り始めた私は、もはや周回遅れです。
正直、私は彼らに追いつくことはできないでしょう。
無理してペースを上げても、へばるだけだと思います。
 
ですが、駅伝においては敗者の流す涙も勝者のそれと同じく尊い
もちろん、自分の走るべき区間をちんたらちんたら歩いていては、
そもそも流せる涙ではありませんが。
 
だから、私は今からでも走り始めます。
周回遅れで、どんなにかっこ悪くても走り始めます。
人生に勝つためではなく、明日の自分のために。
そして布団の中で、一日を走りきった感動に包まれるために。