児童虐待が連鎖する訳

私は男性ですが、母性本能が強いのかもしれません。
とても子どもが好きですし、
実際に知り合いの子どもとかも、なついてくれたりするので、
その子を何とか笑顔にしてあげたいなぁと頑張ってしまったりします。
逆に、子どもが悲しむ姿を見ると、胸が張り裂けるような気分になります。
 
最近、児童虐待のニュースが月に1〜2度くらいの頻度で流れています。
 
そういったニュースを聞くたびに、私は本当に心が痛みます。
小さい子にとっては、親は誰よりも自分のことを考え護ってくれる存在であるはずです。
また、小さい子は外との関係も持たないので、親が自分にとって世界の全てになります。
 
そのような絶対的な存在である親が子どもに虐待を行う・・・
想像するだけで、胸が苦しくなります。
逃げ道も耐える力もない子どもは、
その理不尽な痛みと恐怖と悪意を
どうやってその か弱い心で受け止めればよいのでしょうか。
 
よく言われることですが、
児童虐待をする親は、
自身も幼児のころ、親から児童虐待を受けていたことが多いようです。
自分がやられた嫌なことは他人にしてはいけないと、
普通気づくのではないかと思われますが、実態はそうではないのです。
 
このことについて、私はある考えを持っています。
受け取る愛の総量が欠乏すると、
自身への愛に飢え他者へ愛を振り向ける余裕を持てなくなる、という考えです。
 
コップを想像してみてください。
そのコップは、一人ひとりの心の中に一つ存在します。
子供の頃に親から愛情を受けると、そのコップには愛が注がれていきます。
通常は満タンまで愛を注いでもらえます。
満タンまで愛を注いでもらった人は、
他者にも愛を向けることができるようになるのです。
 
しかし、親の虐待やネグレクトにより、
コップに愛をわずかしか注いでもらえなかった子どもは、
成人しても、まだ自分の心に愛を注いで欲しいと自己中心的な態度を採ってしまいます。
併せて、他者に愛情を向ける余裕もありません。
このような子どもが親になった時、
自分の子どもも自分に愛を向けていないと許せなくなってしまうのです。
子どもが自分を好きで、自分の考える通りの言動を採っているうちは、
親も子どもを好きでいられますが、
子どもが自分を愛さなくなったと感じた時、そのことが許せなくなります。
 
児童虐待は本当に愚かで最悪な所業ですが、
児童虐待をする親も実は児童虐待の被害者であることが多いという実態は、
何かやるせない深い悲しみと理不尽さを感じさせます。
 
どうしたら、皆幸せになれるのだろう?
 
私の「愛のコップ」理論は、
児童虐待のようにマイナスはマイナスを呼んでしまう理論ではあります。
しかし、皆のコップに多くの愛が満ちるような仕組みを創ることができれば、
愛に満ちた人々が他者にも愛を分け与えることで、プラスがプラスを呼び、
世の中が一気に逆転する可能性も秘めている理論でもあるのです。
 
日本人は恥ずかしがってあまり「愛」という言葉を使いません。
だけどこれからの時代、
「愛」というものを真剣に科学的に議論しなければならない局面が
目の前に迫っているような気がします。
 
私は最近ふと思うのです。
日本の社会のコップには「愛」が満ちているのだろうかと。
もしかしたら、徐々に「愛」の量が減ってきているのではないのかと。
 
今の政治家に、「愛」はありますか?
就職氷河期にあえぐ学生達は、凄まじい競争と不安の中で「愛」を保っていられますか?
負け組みと呼ばれる人々に、「愛」は降り注いでいますか?
心の中のコップに、「愛」が欠乏している大人が増えていませんか?