「真」と「善」と「美」

今日は、一つの発見がありました。
 
皆さんは、「真善美」という言葉を聞いたことがありますか?
この言葉は、人間の理想の状態を表した三つの大きな価値概念です。
古代ギリシャの哲学者プラトンが提唱しました。
それぞれが、学問・道徳・芸術の追求目標となっています。
 
この「真善美」。
私なりに解釈しようと、ずっと悩んでいたのですが、
「美」だけがどうしてもわからなかったんです。
 
「真」であることは正しい。
「善」であることも正しい。
しかし、「美」が正しいとは言い切れないよなぁと、ずっとモヤモヤしていました。
だって例えば、美人が全て正しい訳ではないでしょ?
 
しかし今日は、「美」の意味を自分なりに発見することができました。
モヤモヤが晴れてすっきりしたので、
整理と備忘の意味も兼ねて、こちらのブログに自分なりの解釈をまとめたいと思います。
 
まず「真」。
「真」とは、考察することです。
常識に囚われずに、「自分」と「世界」を考察する。
相対的ではなく、絶対的な視点で「自分」と「世界」を捉える。
このために、私は「哲学」の本を読み「物理学」の本を読み
「生物学」の本を読み「心理学」の本を読んでいます。
 
こうして知識を集積すると、「善」が見えてきます。
「真」を見つめると、「善」を目指すことがあながち無意味ではないことがわかってくるのです。
なぜそうなるかは、まだうまくスパッと説明できませんが、
知識の集積の結果、実感として持つことができます。
ここの部分は、今後のブログでも話を展開し、ロジックを構築したいと思っています。
 
さて、ということで、
まず「真」があり、「真」を深めると「善」が理解できるという構図が、
今私の頭の中にできている訳です。
ここまでは、今までイメージできていた内容です。
 
そして、ここに「美」がどうからむか?
それを今日発見しました。
 
「真」は「私」のあるべき状態です。
次に「善」は「私から○○さん」という関係性の中であるべき状態です。
ここまでの中で、「真」と「善」は
「私」がどうあるかもしくはどうするかという、「私」に属する概念でした。
しかし、「私」が理想の状態になっても、「世界」は理想の状態になりません。
そう、「○○さん」を変えることができないと「世界」は変わらないのです。
 
そこで、「美」が登場します。
「美」とは、「真」であり「善」である(つもりの)「私」が、
「○○さん」にも「真」と「善」になってもらうために必要な力なのです。
 
例えば、「イジメ」をやめさせるためにどんな言葉をかけるべきか。
皆さんの経験則からもわかるとおり、
「イジメは間違っていることだよ」とか「イジメは悪いことだよ」っていくら言っても、
イジメっ子は聴く耳を持たないでしょう。
そうではなくて、「イジメかっこわるい」です。
かっこいいスポーツ選手のメッセージとして、
この標語が電車の中吊りで掲載されているのを見たことがあるでしょう?
「美」は価値観の違う人々にとっても、普遍的に共有できる「架け橋」となります。
「真」と「善」はその人の価値観によって千差万別ですが、
「美」は多くの人と共有できる普遍性を有する概念なのです。
例えば、花は誰から見ても美しく、花を醜いと思う人はほとんどいません。
つまり、「美」に訴えることは、
価値観の異なる他人に「真」と「善」を伝える効果的な媒体になり得るということ。
 
そう考えると、「美」とは容姿のみではないと予想が立ちます。
リンカーンは、「人は40歳過ぎたら自分の顔に責任がある」と言いました。
40歳になると今までの行いや自身の価値観等のこれまでの人生が、
容姿にも表れてくるとリンカーンは考えていたのです。
私も、これにはある程度同意します。
初老以降の方の風貌には、その人の内面がにじみ出ていると感じることがよくあります。
柔らかい感じの方と話すとやはり物腰が柔らかいし、
元気な感じの方に話しかけると元気な言葉が返ってきます。
逆もまた真なりです。
 
このように、内面の美しさも外見に反映されるとなると、
「美」のカバーする範囲が単なる目鼻立ちのレベルを超えて大きく広がることとなります。
「美」とは、その人の発するオーラと言ってもよいかもしれません。
すなわち、「背中で語る」ってヤツです。
 
人は、そういう「この人すごい」ってオーラを感じると、
その人を見習いたいと自然に考えます。
例えば、私は先日会社の帰り道、風で倒れた空き缶のゴミ箱を見かけました。
空き缶は道いっぱいに広がっており、通行人が散乱した空き缶をよけて歩いています。
私は勇気を出して、その空き缶をゴミ箱に再度片付けていきました。
しかし、少し恥ずかしいなと思いながら片付けていたので、
通行人から見たら、怪しい人に見えたかもしれません。
 
もし、この時に堂々としたオーラをかもしだしながら、
颯爽と空き缶を片付けていたらどうでしょう?
通行人は、「この人スゴイな。見習いたい。」と思うかもしれません。
 
あなたの経験則と照らし合わせて下さい。
「美しい人」が行う行為と、「美しくない」人が行う行為。
この二者に対する周りの受け止め方が全然違うという現象は、実際ありますよね?
 
ゆえに、「真」「善」を目指す人々は、「美」をも目指すべきなのです。
己だけでなく、世界を「真」「善」にするために「美」を追求する訳です。
 
繰り返しますが、「美」は単に容姿のみを示すものではありません。
後天的に、生き方によって身につく「美」が重要となります。
 
今まで「私」にとって、「美」はとても苦手なジャンルでした。
外見にあまり頓着しないし、服装のセンスも全くなし。
しかし、私はこれから「美」も追求します。
外見にも気を使うし、運動して体を美しくし勉強して自己実現を図る。
ムダな時間やお金をなるべく使わないようにして、
時間やお金の使い方から雑味を取り去り、クリアテイストな人生を心がける。
 
そうすることで、何かしらのオーラが出せるようになると思います。
だんだんオーラが出てくると、
私の行った「真」や「善」も、周りの人に見習いたいと思われるようになる訳です。
 
僅かながらでも世界に「真」や「善」が広がる可能性が生じるならば、
私は喜んで「美」を追求したいと思います。
ようやく「美」の意味がわかった気分です。
 
そうと決まれば、最近サボっていた寝る前の腹筋・背筋・腕立てと、
朝の皇居ランを再開したいと思います。
 
目指せ!「美しい人」。