「正義」恐怖症の日本の政治

内閣不信任案が否決されました。
 
今回の騒動。
国民の目には、どのように映ったのでしょうか?
 
ラジオなどの情報によると、
「なぜこんな時に(政治的かけひきを)・・」という声もあるようです。
 
私の目にも、
「真」でもなく「善」でもなく「美」でもないように映ります。
「美」でないから、国民受けも総じて宜しくない。
(注)このブログでは、
  「真」「善」には個人差が大きくあるが、
  「美」は各人の価値観を超えてある程度普遍的であるという論を展開しています。
 
なぜ、「美」ではないかというと、
今回の騒動は、
攻勢をかけた側も、受けてたった側も、国民の方を向いていないからだと思います。
「機能美」が著しく欠けているのです。
 
「機能美」とは、Yahoo辞書によると、
実用品として作られた物がその機能を十分発揮することで発現する美、のこと。
例えば、家具を想像するとわかりやすいと思います。
本当に座りやすさを追求した椅子は、見た目も美しいですし、
何か内面からにじみ出るオーラ的な美も感じることができます。
 
さて、政治家や政府に求められている「本来あるべき姿」「国民から期待される姿」とは何でしょうか?
難しいことじゃありません。大まかに言えば、以下の2点ではないでしょうか。
(1)<対内的>国民に貢献すること
(2)<対外的>国家の価値を増進すること
 
今回の騒動からは、どちらの機能も感じられません。
別に、内閣不信任案を出すことが美しくないということではなく、
上記の(1)にも(2)にも関係ないよなぁ・・と、
国民にも見透かされることに対してエネルギーをかけていることが美しくないのです。
 
アメリカの政治には「美」があります。
彼らは「正義」という「旗」を掲げて行動しているように、多くの人の目に映るからです。
(注)「正義」であるということは、「真」「善」であることとは無関連です。
私の目には、ある意味中国共産党の政治ですら、
日本の政治に比べたら「美」があるように映ります。
もちろん私の「真」「善」という価値観からすると、彼らのやっていることは「No」ですが。
 
政府や政治家が「美」であるためには、「正義」を掲げる必要があると思います。
日本は第二次世界大戦後、「正義」恐怖症になってしまったのかもしれません。
(注)第二次世界大戦の功罪については、今回議論の対象ではありません。
「正義」とは、「利己」を超えて「世界」がこうあるべきという価値観のことを言います。
(近いうちに「正義」についても、ブログを描きたいと思っています)
 
私は、マイケル・サンデル博士の「これからの「正義」の話をしよう」を読みました。
「真」を追求する私にとっては、
「こういう本を探していたんだ!」というくらい、非常に価値の高い書籍でした。
この本を読むと、一人ひとりが「正義」を考えないといけないということを切実に実感します。
 
日本の政治家からも、「利己」を超えた「正義」を力強く発信して欲しいと思います。
どんな「とんでも」な「正義」でもよいから、
政党の枠も超えて、各政治家が「正義」を語ってください。
政党のご意向を優先し、国民に自身の「正義」を発信しないのは単なる「利己」です。
政治家各人が「正義」を声高に発信しないから、
いつまでたっても政党にも「正義」が醸成されないのです。
 
明治維新の頃の、板垣退助さんや西郷隆盛さんを想像してください。
信じる「正義」を堂々と発信してください。
アメリカのキング牧師のように「私には夢がある・・・」と力強く発言してください。
 
誤った悪い「正義」なんて、いくらでもあります。
それでも、「正義」がない状態よりは「正義」のある状態の方がましです。
「正義」の是非は、選挙で国民に委ねてもらえればよいのです。
政治家の皆さんは、国民をもう少し信用しましょう。
政府・国家が「正義」を掲げないのは、飛べない飛行機と同じ。
「飛べない豚は、ただの豚」で済みますが、
飛べない飛行機は、産業廃棄物であり解体や廃棄に多大なコストがかかります。
「正義」を掲げない政治家や政府は、
美しくないばかりか、国に大きな損害を与える負の価値を持つ存在だと私は考えるのです。
 
「正義」を議論しましょう。国民も政治家も皆。
そうして、「正義」を掲げましょう。
日本国民に対する政府としての「正義」。
世界に対する国家としての「正義」。
 
第二次世界大戦で「正義」に対するアレルギーが出てしまっているのはわかります。
しかし私の目には、
「正義」なき日本は、今ゆっくりと腐って崩壊しようとしているように映ります。
民間企業は頑張っています。しかし、彼らは日本という国家の筋肉細胞の役割。
私が心配しているのは、日本の脳細胞の部分なのです。