アメとムチと意味

最近、生きる意味を深く考える出来事がありました。
そのため、ブログも2日程お休みしました。
 
という訳で、今日は「意味」のお話しです。
以前、「意味」を重視する心理学として、フランクル心理学をブログでご紹介しました。
フランクル心理学に基づく心理療法では、
人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒すという手法をとります。
この心理療法をロゴセラピーと言いまして、
ウィキペディアによれば、以下の3つの基本仮設を大前提としています。
①意志の自由
 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
②意味への意志
 人間は生きる意味を強く求める。
③人生の意味
 それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
 
人生の探求において、私はこのフランクル心理学から大きな気づきを得ています。
詳しくは以前のブログを読んでいただければと思います。
 
今日クローズアップするのは、人間にとって必要不可欠な概念であるこの「意味」です。
 
まず、考えて欲しいことがあります。
人間が動くためには何が必要でしょうか?
まず、思いつくのがアメとムチです。
例えば、本能がもたらす快楽と苦痛。
また、働くことや勉強することのように本能が求めない行為に対しても
アメとムチの原理は人間に対して有効です。
すなわち、「これをやらないとしかられる」「これをやったら報酬をもらえる」。
 
しかし。しかしです。実は、もう一つ人間を動かす原理があります。
それが「意味」なのです。
「この仕事は私にしかできない」「この仕事をやると会社の皆が助かる」。
すなわち、自分が遂行する行動に意味付けを行うことで、
「アメとムチ」以外の要素でも、人間は動機を創造できるのです。
これは、本能に対抗できるだけの理性を発達させた人類のような生物にしか
できない芸当であると思われます。
 
上記に挙げた動機のうち、
「アメとムチ」に基づいた反射的行動は、長く続けると「むなしさ」が心を支配していきます。
「アメとムチ」で動かされる人間は、モノと変わらない自分に否応がなしに気づかされるからです。
本能や他者から与えられた動機ではなく、
自前で用意した「意味」に基づく動機によって動いている場合のみ、人間は、
「自分らしく生きることができている」あるいは「人間らしく生きている」と感じるのです。
 
上記に見るように「意味」は人間にとって非常に大事な概念ですが、
手放しに素晴らしいものかと言うと、実はそうではありません。
扱い方を悪用すると非常に危険な代物になってしまうのです。
 
例えば、戦争における殺し合い、自爆テロ
「お国のために」「神のために」。
人間の心は「意味」を渇望するがゆえに、「意味」で人を殺すこともできてしまう。
「意味」は自身の良心を簡単に駆逐してしまうのです。
 
新興宗教も、意味を悪用した例でしょう。
「あなたは○○のために生まれたんですよ」。
そういうことを耳元で囁かれると、コロッと落ちる人は今の日本社会には少なからず存在します。
なぜなら、伝統的な宗教もなく、学校の子ども達は偏差値でのみ意味づけされる。
偏差値が高くても低くても、自分の生きる意味は何なのか納得のいく答えを誰も教えてくれない。
そんな環境では、生きる「意味」を自分で決めない限り、
悪意の第三者に偽の「意味」を吹き込まれる余地が生まれてしまうのです。
 
大事なのは、生きる「意味」を自分で決めること。
そして、その「意味」に従った人生を過ごすこと。
そうすることで、本当に人間らしい自分独自の豊かな人生を歩むことができるのです。
 
現代社会は、人をモノ化しようとします。
そして、モノや機械は「意味」などなくてもきちんと稼動するのです。
上司に「お前の代わりなんていくらでもいるんだ」と言われた人はいませんか?
自分の仕事を遂行することに対して、あなたは「意味」を見出して頑張ったのに、
他者でもできる仕事なんだと言われたら、あなたがその仕事をやる「意味」は潰されます。
逆に、感謝は「意味」を強化します。
「ありがとう。助かるよ。」と上司に言われるということは、
あなたがその仕事をやる「意味」を上司にも追認してもらったことになるのです。
 
人はパンのみに生きるにあらず。
人はパンと「意味」に生きるのです。
 
もし、あなたが「意味」を得られない環境にいる時は、
「意味」を得られる環境を積極的に模索することも必要かもしれません。
 
今一度考えてみてください。
あなたは、何のために生きているのですか?
あなたは、何のために生まれてきたのですか?
生きる意味や生まれた意味ををわからないまま、人生を終えてしまってもよいのですか?