「縁」と「蝶」

「縁」という言葉。
日常でよく使う言葉ですが、
あまりしっかりと意味を把握して使っている方は、意外に少ないのではないでしょうか。
少なくとも、私はそうです。
 
例えば、何かの行動の理由として
「これも何かの縁ですから」ってよく言いますが、
結局、その行動の理由はいまいち具体的にわかりません。
 
いつものように調べてみましょう。
「縁」はもともと仏教用語
ウィキペディアを見てみますと、
「縁」とは「縁起」のことであり、
「縁起」とは「因縁生起」の略なのだそうです。
 
「因縁生起」は仏教の根幹をなす思想の一つで、
世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちで
それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指すとのことです。
 
そして、「因縁生起」のうち、
「因」とは数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを指し、
それ以外の原因を「縁」というそうです。
 
例えば、「芽が出る」ことの「因」は「種」であり、
「土」や「水」や「空気」も「芽が出る」ことに必要ですが、これらは「縁」と呼ぶ訳です。
 
話は脱線しますが、こういう考え方を見ていくと、
「仏教」は、やっぱり「宗教」ではなく「哲学」だなと感じます。
「世界は神によって創造された」とする考え方がある一方、
人による「世界とは何だ?」という探求の成果が経典に記されている仏教は、
「神」主体ではなく「人」主体の教えであるんだなぁと思う次第です。
 
さてさて、話を元に戻します。
つまり仏教では、あらゆるものが因果の輪の中にあると説いている訳ですね。
この「縁起」の考え方を表現する有名な詩句として、
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
 此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」
というものがあります。
何となく「縁起」の世界観をイメージできますでしょうか?
 
繰り返しになりますが、
物事の直接の原因となるのが「因」であります。
「因」までは、誰もが常識的に感じる価値観の範囲内でしょう。
しかし「仏教」は更に、原因の範囲を広げます。
まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルまで、
物事の因果は絡み合っているとしている訳です。
例えば、たまたま街で旧友にばったり出会った時、
ここにはいろいろな「縁」が作用しています。
こんな感じで・・・
①たまたま朝、テレビで流行のファッションの情報が流れた。
②たまたま今日は休日で、母から買物を頼まれ、ついでに洋服も買うことにした。
③たまたま買物に行く途中に、近所の仲のよい野良猫が現れたので、5分ほど構ってあげた。
そしたら、結果として何年も会っていない旧友と街中でばったり出会った。
 
このような無数な「縁」が「結果」につながるという考え方は、
現代科学のカオス理論に通じます。
この理論を端的に表現したものがバタフライ効果です。
バタフライ効果とは、ある場所を飛んでいる蝶の羽ばたきが、
遠く離れた場所の将来の天候に影響を及ぼすというものです。
「蝶が羽ばたけば台風が発生する」なんて言ったら、
風が吹けば桶屋が儲かる」以上に「なんじゃそりゃ」と一笑に付されると思います。
だけども、仏教も現代科学も
「世界を解明するためには、こういった微細な影響も考慮しないといけない」と
考えている訳です。
 
まあそんな訳で、「縁起」の考え方によれば、
この「世界」や「自分」は、いろいろな「縁」の影響で今があるということになります。
 
今の自分があるのは、日頃お世話になっている方々のお陰。
だけどもそれだけではなく、もしかしたら嫌っている人や馬鹿にしている人のお陰も
随分とあるのかもしれない訳です。
 
ここまで考察を進めると、
冒頭の「これも何かの縁ですから」の意味もわかってきます。
すなわち、
「私がこの行動を起こすのは、
 "因"のようなはっきりした動機がある訳ではありません。
 しかし、私も認識できていない何かの"縁"によって行動を起こすに至ったのです。」
と解釈できる訳です。
 
ところで、現代のインターネット社会では、「縁」の総量が爆発的に増大しています。
「縁起」の考え方で言えば、
これだけの「縁」が生まれる社会では、
今まで予想もしないような「結果」が引き出されることが、当然にしてあり得るでしょう。
 
はてさて、このブログを読んだことによって、あなたにも「縁」が生じました。
このブログの筆者としては、
この「縁」が、あなたにとってよい「結果」につながることをお祈りする次第です。