【クオリア】 ロボットは七色の虹に何を見るか?

「私とは、いったい何なのでしょうか?」
人類はこの永遠の疑問を、哲学・宗教・科学という手法で解決しようとしてきました。
 
現在ではこの問いに対して、多くの部分が科学により解明済です。
しかし、全てではありません。
「私とは何か?」という難攻不落の砦。
まだ解明しきれていない最後の疑問が、「クオリア問題」なのです。
 
クオリア」のウィキペディアこちら
 
「私」と一言に言っても、「私」を構成する要素は様々です。
例えば、「私」を形成する様々な「記憶」。
 「私」の「名前」「肉親や親戚の顔・名前」「思い出」等々。
 「記憶」は、科学で解明されている物理現象です。
 記憶障害の例を見ればわかるとおり、「記憶」を切り離しても「私」は「私」です。
 「記憶」は「私」の本質ではありません。
次に、「意思決定」する「私」。
 これは、前日のブログで説明しましたが、
 「意思決定」しているのは、「私」ではなく「無意識」です。
 「私」という「意識」は、「それを意思決定した」と思わされているに過ぎません。
 「意思決定」はどうやら、
 「外部刺激」と「過去の記憶」を使って「無意識」が機械的に行っているようなのです。
 そして「私」という「意識」は、
 あたかも映画館の椅子に縛りつけられて映画をむりやり鑑賞させられているように、
 「無意識」が「意思決定」した結果を見せられているだけなのです。
最後に「私」の要素として残るのは「クオリア」、「感じる私」です。
 この部分が、まだ科学では解明できていないのです。
 そして、この部分こそが「私」の「役割」「意味」「本質」なのかもしれません。
 
では、「クオリア」「感じる私」とは、どのようなものか?
以下の色を見てください。

 
何色でしょうか?
はい、「赤」ですね。
 
科学的に表現すると、波長 630-760 nm が際立っている光です。
人々は波長 630-760 nmの光を「赤」と呼びます。
ちなみに、波長 450-485 nmの光は「青」と呼ばれています。
 
ここで、注意が必要なのは「赤」と「青」が光という全く同じ存在であることです。
「赤」と「青」の違いは、単に波長が違うだけ。
しかし、「赤」と「青」って連続したものではなく、不連続なものに見えませんか?
例えば、震度2の地震も震度5の地震も、
揺れの大きさが違うだけで連続した同じ存在として認識しているはずです。
しかし、あの「赤」という「感じ」。「青」という「感じ」。
地震の揺れとは違って、「色」は不連続な全くの別物と認識されているのです。
 
ウィキペディアの説明にもありますが、
クオリア」とは、人の感じる「感じ」のことなのです。
「赤色を見たときの感じ」「和音を聴いたときの感じ」「お味噌汁の匂いを嗅いだときの感じ」
 
科学とは数字で表現されるもの。
だから、数字を使う現状の科学では「クオリア」を論じることはできない。
科学は、色を波長でしか定義することができないのです。
 
ロボットを想像すると、わかりやすいかもしれません。
いわゆる、小説や映画でよく題材にされるロボットには「心」があるかという論点。
今の科学力では、ロボットは「赤」を、
私たちが実感として感じているあの「赤」の「感じ」で見ることはできません。
あくまで、波長 630-760 nmの光として認識するだけです。
だから、ロボットが虹を見たとしても、
単に波長が小さいものから大きいものまで連なった光の半円としか認識できません。

 
「音」にも同様に「クオリア」があります。
ロボットは「音」を、様々な周波数の単なる空気振動としてしか認識しません。
ところが、人は、ある振動のパターンは「和音」として、
また別の振動パターンは「不協和音」として感じる訳です。
 
今の科学力であれば、ロボットは人間と同様に、
経験を記憶したり外部環境を基に行動の意思決定をしたりすることはできます。
しかし、この「感じる」ことができないのです。
「感じる」ことができない以上、現状のロボットには「心」がないことになります。
 
例えば、よく小説や漫画において、
ロボットが「心」を持った証拠として「涙」を流す描写があります。
「涙」を流すためには何が必要か?
そう、「感じる」ことが必要なのです。
 
これまで「私(自我)」についていろいろ調査を続けてきましたが、
だいぶ「私(自我)」の本質が見えてきたような気がします。
そして、一つの仮説を持つに至りました。
どのようなものかと言うと、
「価値観」こそが、「私(自我)」の本質ではないかということです。
「意思決定」や「記憶」は、単なる脳の物理的な働き。
「私(自我)」の本当の仕事は、外の世界を体験して「感じる」こと。
自身の「価値観」は、外の世界の体験を通じて成長していきます。
併せて、感じたことに対して、「私(自我)」は自身の「価値観」を基に「意味」づけを行い、
「意味」付け後の「記憶」を脳にフィードバックします。
 
例えば、友人に誘われて「万引き」という行為したとします。
友人は「万引き」を「楽しい行為」と、自身の「価値観」でジャッジしているかもしれません。
しかし、誘われた方は、
「万引き」という体験を自身の価値観と照らし合わせて「悪」と感じるかもしれません。
「悪」とジャッジされた「万引き」の経験は、負の記憶として「脳」にストックされます。
 
この「体験」をジャッジする「価値観」こそが、
余計なものを取り除いた後の「私」の本質だと言えるでしょう。
何を「真」と捉え、何を「善」と判断し、何を「美」と感じるか。
「名前」や「肩書き」や「性別」や「才能」は、「私」の本質ではないのです。
 
もし万が一、人に「魂」のようなものがあるとしたら、
「死」とは、「体」や「脳」から「魂」が離別する行程と考えることができます。
「記憶」は「脳」にあるので、死んだら持っていくことはできません。
「名前」や「肩書き」も所詮「記憶」ですので、死んだら消え去ります。
「体」ともお別れなので、「性別」や「才能」も死んだら消えるでしょう。
もしかしたらパソコンのブラウン管ディスプレイで起きる「焼きつき」のように、
強烈な思い出だけは「魂」の方にも焼きついているかもしれませんけどね。
 
まあ多分、死後も持っていけるものがあるとするならば、
それは、人生を通じて磨いてきた「価値観」だけなんだろうなぁと、今は妄想しています。