「メメント・モリ」
「メメント・モリ」という言葉があります。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。
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古代ローマにおいては、「メメント・モリ」という言葉は、
「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであったようです。
これが、キリスト教の時代になると、
現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調し、
死後の世界に思いを馳せる言葉となります。
「メメント・モリ」。
あなたは「死」を想ったとき、何を感じますか?
「死」とは、「私」の消失。
最後に消えてしまうものなら、消えるまでは輝かしい「生」を満喫しようとするか。
「死」によってこの「世界」から唐突に消えてしまうのなら、
この「世界」の出来事は空しいものにすぎないのか。
古代ローマ人が考えたように、食べて飲んで笑って、
生きているうちに楽しい思い出をたくさんつくるのも一興。
だけど、古代ローマ人は現代人よりも豊かな人たちでした。
現代人は、古代ローマ人のように一日中食べて飲んで笑うことはできません。
多くの現代人は、仕事に一日の大半の時間を使わなければいけません。
まあ富裕層の方は、古代ローマ人に見習うのも、ありかもしれませんね。
むしろ、現代人の人生は多くのキリスト教徒が体験した人生のように、
普通に苦しみに満ちています。
明日死ぬかもしれないとしても、人々は今日も普通に仕事にあけくれます。
(基本、仕事は苦しみですよ。多くの人は休日が好きでしょう?
仕事が苦しみではないと言う人々は、才能と仕事が一致した幸せな人々だと思います。)
人生に苦しみが満ちている人々にとって、「死」という事実は慰めとなります。
「どんなに贅沢したり手柄を立てたりしても、どうせ皆死ぬんじゃん。」
「死」を見つめ、苦しみの「生」から目をそらします。
キリスト教徒は、神に救われる死後の世界に想いを馳せたのです。
「メメント・モリ」。
私は「死」を想ったとき、「生」の「意味」を知りたくなります。
「死」によって、ある日突然、シャボン玉のようにパチンと消える私の「生」。
しかも、「生」は苦しみに満ちている。
この、苦しみに満ち、予告もなしに消える「生」には、どんな「意味」があるのか?
何の事前説明もなく、いつのまにか始まった「生」。
私は、この「世界」のあらゆる情報を使って、「生」の意味を探求します。
「メメント・モリ」。
そして、大航海時代の新大陸を探す名もない航海士のように、
このブログという「航海日誌」を描き続けていきましょう。
大航海時代。夢と勇気さえあれば、誰でも新大陸を探す航海士となれました。
「生」の意味を探るのは、偉い学者や偉人だけの特権ではありません。
「メメント・モリ」。
「生」の真実に近づこうとするほど、私の「世界」が広がると信じて。
たとえ仕事に追われる毎日であっても、
限られた時間の中で、なるべく多くの時間を探検に使い、
このブログという「航海日誌」を残していきましょう。