ポスト「和」

日本には、人の心の成長を阻害する言葉が結構存在します。
「大きなお世話」「自己満足」「偽善者」。
 
日本人は文化的に、「善」よりも「和」を大切にする傾向があるようです。
例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉があるように、
「和」を満たしていれば「善でないこと」も容認される風土だったりします。
まあ、「いじめ」がその典型例でしょう。
 
また、「ちくり」という言葉は、小学生でも知っている言葉ですが、
あまりよい意味では使われません。
たとえ、「いじめの事実を看過できず、先生に相談する」という行為であっても、
「ちくり」という言葉で表現されれば、
なんとなくやってはいけない「タブー」な行為という意識が生じてしまいます。
「いじめ」を黙認した経験はありませんか?
「いじめ」が「悪」だという意識はあるものの、
「和」を乱す「ちくり」というタブーを犯すことができない。
 
そんな文化の中、「和」を満たさない「善」に対する社会の目は結構厳しいです。
「心」の成長過程において、
「自分」をしっかり持っていない時期に始める未熟な「善」は、
エゴの絡むものも多く、不完全であることが多い。
そんな未熟な「善」には、
「大きなお世話」「自己満足」「偽善者」というような言葉が浴びせられ
「善」への動機がくじけてしまうこともよくあります。
そもそも、「和」を満たさない「善」は恥ずかしいという意識も根強い。
例えば、電車で席を譲るという行為を、私は小中学生の頃恥ずかしくてできませんでした。
 
日本社会の土壌では、
様々な葛藤を経て自分をしっかり持った者のみがようやく「善」を行使できる。
そんなイメージが、私にはあります。
 
このように日本社会においては、「和」のせいで、
個人が「善」を行うことのハードルが高くなってしまっています。
そして、「和」を満たさない「善」は社会に殺される傾向がある。
今まで挙げてきた事例は、小学生や中学生の事例でしたが、
これらの傾向は、大人たちの形成する一般社会においても普通に見受けられます。
今回の原発事故に対する東京電力の対応を見てもわかるでしょう。
この企業は、確かにコンプライアンス(企業の法令順守)を満たしているかもしれませんが、
この企業の行動が「善」ではないと感じている方は多いと思います。
 
現在、最も「和」の弊害が出ているのが「政治」です。
日本の政局は、政治家達の「和」の倫理で動いています。
「善」によって動くことは、1ミリたりともありません。
懐柔や取り込みをうまく行って、多数派となった者達が国家の舵をとるのです。
そしてたとえ舵を握っても「善」の倫理では動かず、やっぱり「和」の倫理で船は進みます。
目的地がない行き先不明の豪華客船。
「和」さえ保てばよいので、氷山が前方に合っても、
「氷山が前にあるぞ!」と自己主張して早々に舵を切ることもできません。
 
あなたは、こんな豪華客船に乗りたいと思いますか?
 
これからの社会、「和」を尊ぶだけではダメなような気がします。
確かに「和」は尊い
しかし、これからの先行き不透明なもやのかかった時代、
「和」を破ってでも舵を切らないと、
取り返しのつかない結果が待っているという危機的シチュエーションが、
今後、幾度となく日本社会に押し寄せてきそうです。
 
「和」の破壊。
日本人は、ポスト「和」を真剣に考えないといけない潮目に来ていると、私は考えます。