「四苦八苦」の「四苦」

私の中では、「仏教」とはもともとブッダの気づきをまとめた「哲学」だと思っています。
そしてブッダ後に、
後世に伝播する中で発生したお経等の神秘的な儀式は「宗教」のジャンルに入ってくる。
 
「世界は何故苦しみに満ちているか?」
「私たちは、何故苦しまなければならないのか?」
という大昔から、多くの人が恨みつらみとともに感じていたであろう疑問。
原始の「仏教」は、その答えを探ろうとする「哲学」であると、私は考えています。
 
さて、科学的に上記の疑問を解決するとしたら、どんな手法をとるか?
それは、疑問の対象となる「苦しみ」を徹底的に分解して、
「苦しみ」を最も基本的な要素まで細分化すること。
例えば、「水とは何か?」という疑問に対し、
「水とは水素原始2つと酸素原始1つです」というところまで分解する訳です。
 
そして、ブッダも「苦しみ」を8つの要素に分解しました。
それが「四苦八苦」。
「何故世界は苦しみに満ちているのか?」
それを解明するために、「苦しみ」の正体を探った訳です。
 
ブッダによれば、「苦しみ」とは「生」「老」「病」「死」の根本的な「四苦」に、
愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」
「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」を合わせて「八苦」。
※後半の4つの苦しみについては、次回お話したいと思います。
 
さて、まず最初の「四苦」を見てみましょう。
「老」「病」「死」が苦しいのはわかりますが、
面白いのは「生」も苦しみであること。
だから、「仏教」では悟りを開いて輪廻転生の輪から抜けることがゴールとなる。
「生」は苦しみばかりじゃないよ!という意見を持つ人もいるかもしれません。
しかし、それは周りの「人」や「命」に関心がなさすぎかも。
理不尽なことに巻き込まれて苦しんでいる人は探せばいくらでも周りにいるはずですし、
ましてや他の動物や虫にも「生」はあります。
雪の降るとてもとても寒い夜、
野良猫たちがどう寒さをしのいでいるか心配になったことはありませんか?
 
どう贔屓目に見ても、やはり「生」自体は「苦しみ」だと私は思います。
ちなみに「仏教」では、生まれ出るときに赤ちゃんが泣き叫んでいるのは、
「生」の苦しみを察しているからだと解釈しているようです。
 
そもそも、苦しみは「DNA」が自身の複製を多く残すことを目的として、
「個」の行動をコントロールするために編み出した「飴とムチ」の「ムチ」です。
(詳しくは、私の利己的遺伝子を説明した過去ブログをどうぞ)
だから「苦しみ」は、「飴」である「快楽」と表裏一体。
そして、「苦しみ」を感じるのは外部に原因があるのではなく、
自分自身の内部に根本の原因があるのです。
それすなわち、「本能」。あるいは、「煩悩」です。
 
生物の「個」は、「DNA」を運び増やすための哀れな使い捨ての乗り物に過ぎない。
これが、ドーキンスの利己的遺伝子の考え方。
そして、この「苦しみ」をもたらす「個」の敵は「個」の内部にあるという考え方は、
「仏教」の考え方そのものです。
「仏教」では、一神教の異教徒に対するスタンスのように外部に敵を見出しません。
十字軍や自爆テロのように、他の「個」に迷惑をかけるようなことはしません。
「仏教」では、個々人が自身の内部の「煩悩」「マーラ」という敵と戦うのみなのです。
 
「生」は「苦」である。
目を背けたくなるような絶望的な考え方ですが、
「仏教」では、それでもしっかりとその事実を受け入れ、
「では、どうすればよいか?」という答えを導いています。
 
私は無宗教ですが、一つ宗教を信仰しろと言われれば「仏教」にします。
「仏教」は、他の宗教に比べて、優れて合理的だから。
宗教というファンタジーを嫌って哲学や科学の書籍を読み漁って彷徨った私ですが、
「仏教」の納得性の高さにはとても驚かされているのです。