「与える」or「見捨てる」

「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
と、アインシュタインは言いました。
 
だけど、人は太陽のように無限に万人に与えられる訳ではありません。
一人の人が持つ時間とエネルギーは限られています。
例えば、今の私には地球上の全てのストリートチルドレンを救うことはできません。
 
それでは、このちっぽけな資源を与える相手をどのように選択すればよいのでしょう?
 
私は、ここに「縁」の役割があると考えます。
生きていると、いろいろな「縁」が生まれます。
そして、その「縁」の中からは、自分に助けを求めてくる「縁」もあるはず。
世界に無数の人間がいる中で、あなたに助けを求める「縁」ある存在。
「縁」はあなたに、「与える」相手を指し示してくれるのです。
 
その「縁」ある存在と出会ったとき、あなたは一つの選択を迫られます。
すなわち、「与える」か「見捨てる」か。
あなたは、そんな場面に出会って葛藤したことはありませんか?
私は今まで、「見捨てた」ことも「与えた」こともあります。
一つ言えることは、「見捨てる」ことを選択すると、
心を切るような痛みにもだえなければならないということです。
じゃあ、「与える」という選択が全てにおいて正しいのでしょうか?
 
ここまで書いて、中途半端で申し訳ないのですが、
正直私には、「与える」と「見捨てる」のどちらが正解なのかわかりません。
なぜなら、この世界には「借金」というものがあるからです。
普通だったら人の持ち物はゼロ未満にはなることはありえない。
しかし、「借金」はマイナスの状態を許し、
救おうとする人までマイナスの状態となる可能性がある。
前にも書きましたが、
イスラム教」や原初の「キリスト教」などでは金貸しを商売にすることを罪としており、
「借金」による苦しみは、人が経験してはいけない苦しみであると捉えられています。
 
また、「お金」そのものの特質も、「与える」ことの弊害となります。
なぜなら、水や食料と違って「お金」は、無限に持つことができるから。
だから、お金に困っていなくても、騙して「お金」を与えてもらおうとする人も出てくる。
自分よりも「お金」に困っている人から、
平気で「お金」を吸い取ろうとする輩は五万といます。
一方、水や食料はいくら集めても、いつかは腐ってしまいますので、
騙してまで集める人は、本当に不足している人ということになるでしょう。
不足している人になら、騙されたとしても「与える」ことには意義もあると思われます。
 
このように考えていくと、「お金」以外のものについては、
「与える」ことにそんなに問題はないように感じられます。
私も、「お金」以外のものは、積極的に「縁」ある人に「与えて」いきたい。
 
「何かを与えれば、代わりに得るものがある──幸せだ。」ダライ・ラマ14世
 
どんどん「与えて」人を幸せにすれば、きっと自分も幸せになっているはず。
─「お金」以外であれば─
 
さて、じゃあ「お金」について考えてみたいと思います。
自分に縁のある人が「お金」に困っていたとき、「与える」べきか「見捨てる」べきか。
う〜ん、やっぱりわかりません。
 
ただ一つだけ言えるのは、「お金」を「与える」ということは、
自分の人生を「与える」に等しい行為だということです。
深く考えずに「お金」を「与えたら」失敗するでしょう。
 
「お金」を「与える」なら、自分の人生を全て「与える」覚悟で。
その先に、「幸せ」が待つのか「不幸」が待つのかは私にはわかりません。
ただ願わくば、自分の人生を「与える」その覚悟に見合うものが、
「与えた」人に、もたらされることを。
 
私は現状のところは、「お金」に関しても、今まで「与えて」きて後悔はしていません。
少なくとも「見捨てる」ことで失ってしまうものは、守ることはできました。
深い葛藤の中にいますが、その「お金」で笑顔を生むことができているのも事実です。
 
迷いも多々ありますが、いつも「与える」ことの最前線にいたい。
そうして、見えてくる人生の本質があるはずです。