「深淵」を覗きこんでみました

昨日、仕事で横浜に行ってきたのですが、
駅から降りて待ち合わせ場所に行く途中に、
物乞いの方がいらっしゃいました。
道で正座をして、目の前にコーヒーショップの紙カップを置いています。
 
今まででしたら、そのまま通り過ぎていたのですが、
私は物乞いの方を背にして信号待ちをしている間、迷いました。
 
空腹なのに、食べることができない辛さ。
それは、かなりの苦しみです。
そしてそれは、最低限のお金があれば、しばらくは回避できる苦しみでもあります。
 
500円あれば、食べ物を買えるよなぁ・・と考え、
しかし、人目も気になるのです。
財布の中に500円玉があることは、既に確かめました。
 
信号が青になる前に決めなければなりません。
A:物乞いの方に近づき、カップの中に500円玉を入れる。
B:帰りにも同じ道を通るだろうから、その時に500円玉を入れる。
C:そのままなかったことにして、今までどおりに生きる。
 
結局、私はAを選びました。
ちなみに、Bを選んでいたら、
帰りは打ち合わせ先の方々と昼食をとり別の駅から帰ったため、
この物乞いの方に再度出会うことはありませんでした。
もしかしたら、この先一生出会うこともない可能性もあります。
 
Aを選んだ私は、多少周りの目も気になる中、
意を決して、物乞いの方に近づき、500円玉をカップの中に入れました。
物乞いの方は、終始無言でしたが、
私はカップの中を覗きこんで、「えっ?」と思いました。
 
既に、結構な数の100円玉が入っていたのです。
しかも、気のせいかもしれませんが、それぞれの100円玉がとても綺麗なのです。
おそらく、100円玉を投じた人たちは、
無意識に綺麗な状態の100円玉を財布の中から選んで投入したのではないでしょうか?
強制ではなく、自ら進んで自分の意思で誰かに「与える」とき、
その「与える」ものは、
無意識にその人の中で最上なものが選ばれるのかもしれないと考えました。
アンパンマンをイメージしてもらえればわかるとおり、
自分も必要とするものを他者に「与える」行為は、
自分自身を「与える」行為に他ならないからです。
「与える」ものが自分自身なら、きっと人は最上なものを選びます。
 
カップの中の十数枚に及ぶ100円玉。
何気ない日常の中で、
私は突如、はっと思わせるほどの綺麗さ(大げさに言えば神々しさ?)に出会えて幸運でした。
 
そんな訳で、
昨日、私は今までの人生とは違う新たな選択肢を選びました。
選ぶことができたのは、おそらくこの1年ブログを描いてきたお陰です。
そして、新たな選択肢を選んだとき、
私は「世界」の新たな一面を垣間見ることができた気がしています。
それは、なかなか新鮮で興味深い一面です。
 
「与える」ことで見えてくる「世界」というものが、もしあるのならば、
私は今、その「世界」の「深淵」をもっと覗きこんでみたい衝動に駆られ始めています。
 
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