人類最大の「テーゼ」と「アンチテーゼ」
私の人生に関する理論の、前提となる考え方として、
ドーキンス博士の「利己的遺伝子」という考え方があります。
(詳しくは過去ブログをどうぞ)
個々の生命は、「遺伝子」が次世代に伝わるための乗り物に過ぎないという考え方です。
「遺伝子」は、自分のコピーを世界に広めるために、
個々の「生命」を使い捨ての乗り物として利己的に利用します。
「遺伝子」の目的は、個々の「生命」の「幸せ」ではないのです。
「遺伝子」は自分のコピーが広がれば、それでいいので、
性欲や食欲といった「アメ」と、苦痛や恐怖といった「ムチ」で、
個々の「生命」を操ります。
哀れな「生命」は、
目の前にぶら下がった「人参」を追い、「ムチ」の痛みを嫌って行動を決定します。
こんな状態は当然「生命」にとって「幸せ」な状況ではありません。
わかりますよね?
水族館で芸をするアシカは、確かにエサを目当てに芸をしますが、
飼育員とアシカの「心」の「信頼関係」も重要だったりします。
もし、そういった「信頼関係」がなく、
「エサ」の誘惑と「ムチ」への恐怖のみで芸をするアシカは、「不幸」だと思うでしょう?
つまり、「遺伝子」の「支配」から解放されないと、
個々の「生命」に「幸せ」は訪れない訳です。
ここまでは、今までのブログ記事で説明してきた「考察」ですが、
この「考察」には大きな「欠陥」があります。
それは、「じゃあ自殺したらいいんじゃない?」という結論になってしまうことです。
かつてアメリカのカルト教団が集団「自殺」をしたという例がありますが、
私は、「自殺」は「幸せ」の答えではないと直感的に感じています。
では、どのように考えればいいのか?
ここで、「ヘーゲルの弁証法」を利用します。
(「ヘーゲルの弁証法」の過去ブログはこちら)
「遺伝子」の「支配」は、「弱肉強食」という過酷な環境を引き起こし、
ずっと「生命」を苦しめてきました。
「遺伝子」は「アメ」と「ムチ」を使って、「生命」に殺し合いをさせているのです。
昔流行った映画の「バトル・ロワイヤル」みたいなものですね。
(ここら辺は、過去ブログに詳しく描いています)
しかし、この「弱肉強食」という「テーゼ」に対して、
今「アンチテーゼ」が突きつけられています。
それが、「生命」が何十億年も進化して手に入れた「優しさ」なのです。
「優しさ」とは「弱者」を助けることですので、「弱肉強食」と真っ向から対立します。
ですので「優しさ」とは、「生命」にとって、
非常にセンセーショナルで意義のある概念なのです。
ところで、「弱肉強食」の世界においては、「弱者」も、そして「強者」も苦しみます。
「強者」も、いつ「弱者」の立場になって殺されるかわからない「世界」ですから。
仏教で言うところの「畜生道」の世界ですね。
「遺伝子」に命じられるまま、
「弱者」を踏みにじり「強者」を恐れる「畜生道」のような「世界」であるならば、
「救い」は、「死」すなわち「自殺」以外にはありません。
しかし、「優しさ」という「アンチテーゼ」が対立軸として存在するのであれば、
「世界」は混沌としてきます。
そして、「自殺」が「救い」となるかどうかも怪しくなる。
では、どうすれば「救い」を得られるのか?もしくは、「幸せ」になれるのか?
その答えが、「弱肉強食」という「テーゼ」と、「優しさ」という「アンチテーゼ」を、
本質的に統合して「ジンテーゼ」を産み出したところに、
存在するのではないかと思うのです。
(これらの言葉に関する解説は、こちらをご覧下さい)
実は仏教では、その「ジンテーゼ」を用意をしています。
「悟り」ですね。
「優しさ(慈悲)」を極めて「悟り」を得た者のみが、「輪廻転生」を卒業し、
「弱肉強食」もしくは「遺伝子(マーラ)」の支配から解放される。
「輪廻転生」というものが存在し、
「弱肉強食」の「苦しみ」も「悟り」のための「糧」であるのならば、
「死」につながるような「苦しみ」ですら、「意味」のあるものになります。
ですが、私には「輪廻転生」が実際にあるかどうかもわからないし、
「悟り」とは何かもわからない。
だから私は、
「弱肉強食」という「テーゼ」と、「優しさ」という「アンチテーゼ」から、
どんな「ジンテーゼ」が生まれるか、まだしばらくは「考察」を深めようと思います。
まあしかし、人々が利用する「人生」の「苦しみ」への「処方箋」として、
「仏教」の「輪廻転生」および「悟り」という考え方は、
私の知る限り最も有効なものだと思います。
もし、今苦しくて「自殺」を考えている人がいらっしゃったら、
原始「仏教」の考え方を紐解くのも、手かもしれません。
(念仏とか写経とかの儀式は、論理的に考えて必要ありません)
東日本大震災に際して、千葉県在住の7歳の女の子が、
ローマ法王に
「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」という質問をしました。
(ローマ法王の答えを知りたい方は、過去ブログをどうぞ)
ブッダなら、こう答えるかもしれません。
「命」を苦しめたり悲しませたりすることは「慈悲」に反することです。
だから、子どもたちがこんなに悲しまなければいけないのは、あってはならないこと。
仮に、もしその子が亡くなったとしても、「輪廻転生」により、また生まれ変わります。
どうして人は繰り返し繰り返し生まれるのか?
それは、この「理不尽」な「世界」から解放されて「成仏」するためです。
そのためには、「苦しみ」を「糧」に、「悟り」への道を模索しなければならない。
子どもたちが苦しむのは、本当に辛いことですが、
苦しんだ分だけ確実に「悟り」に近づいているのです。