1枚の図

今日は、いつもと違う切り口で「自分」という存在を考察してみたいと思います。
 
手元にあるのは、ある人から頂いた1枚の紙です。
そこには、図が印刷されています。
 
外の世界に対する自己のあり方が、心理学的に図示されたものです。
 
著作権があるので、詳しく描けないのですが、
そこから自分なりに感じたことを描いていきたいと思います。
 
世界を感じる上で大事なことは、どこに目を向けるかです。
自分ではどうにもならない「外部世界」をじっと見つめていると、
「苦しみ」が、止めどなく湧き上がってきます。
 
「世界とはそんなものだ」「世界は理不尽だ」と達観したような気持ちになっても、
依然、視線は「外部世界」に釘付け。
そのままでは、「心」はどんどん硬直していきます。
 
どうやら、私は見つめる(意識を合わせる)先を間違っていたようです。
自分ではどうしようもない「外部世界」を見ていても、何も生まれません。
自分を見るべきだった訳です。
ただ自分と言っても、もちろん「遺伝子(本能)」の方ではありません。
「遺伝子(本能)」を見つめたら、「快楽」に翻弄されて、これまた苦しくなります。
 
じゃあ、見つめるべきは自分の「心」なのでしょうか。
それも、少し違います。
大体、私の「心」を見つめるなんて言うと、なんかナルシスト的ですし。
そうではなくて、見つめるべきは、もっと奥の方にあります。
すなわち、全ての生物に普遍的に存在する美しく燃える「命」です。
 
「命」は、他者に「与えたい」という「想い」の源泉となります。
生きとし生けるもの、全ての存在に宿る美しい宝石。
この美しく燃える「命」を見つめて、
この奇跡の宝石が自分にも宿っていることを実感すれば、
「心」は本当に安心します。「幸せ」が訪れます。
 
そして、他者の美しい「命」にも目を向けられるようになるのです。
 
大事なのは、「遺伝子(本能)」という障害物をかき分けて、
自分の中の「命」を発見すること。
 
「自分という存在は、こんなにも美しい!」
これを恥ずかしげもなく言えるようになった時、「幸せ」は成就します。
 
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