「初期設定」もしくは「ギフト」

昔、「ウィザードリィ」というゲームがありました。
国民的ゲームの「ドラゴンクエスト」の先輩にあたるゲームです。
両者は「ロールプレイングゲーム」というジャンルになるのですが、
この「ウィザードリィ」は、
コンピュータ上で行う「ロールプレイングゲーム」の原点と言われています。
ウィザードリィウィキペディアこちら
ロールプレイングゲームウィキペディアこちら
 
さて、このゲーム。
まず登場するキャラクターを自分で作ります。
ボーナスポイントがランダムで与えられ、
「力」「知恵」「信仰心」「生命力」「素早さ」「運」の6項目に
プレイヤーが任意でポイントを割り振るのです。
 
ここで、プレイヤーは頭を悩まします。
「知恵」にたくさん割り振って頭のよいキャラクターにするか、
「生命力」にたくさん割り振って仲間を護る頼りになるキャラクターにするか・・・
はたまた、どういう効果が出るかわからないけど、
「運」にたくさん割り振ることだってできます。
 
ロールプレイングゲーム」とは、
このようにして作った仮想の人格の「人生」を演じるゲームなのです。
一方、リアルの「人生」の方は、
生まれ持った「能力」や「才能」を自分の意思で決定することができません。
ですから、この「ウィザードリィ」のキャラクター作成時には、
現実世界では不可能な「初期設定」を変えたいという「悲願」のようなものが働いて、
結構な時間と情熱をかけて慎重に自分の演じるキャラクターを創りあげる訳です。
 
私が最初にこのゲームをやったのが、小学校高学年くらいだったでしょうか。
こういう「人生」をシミュレートするようなゲームというのは、
自身の「人生」を考察するよいきっかけともなります。
自分の分身が、様々な仲間と出会い事件に遭遇し人助けをしていく。
糸井重里さんがプロデュースされた「マザー」というゲームのシリーズもそうですが、
「人生」について、道徳の時間なんかよりも多くのことを、
ゲームから学ぶことだってできるのです。
特に「人生」に対する「哲学」的な発想は、学校では学べません。
「生きる」とは、どういうことなのか?「善」とは何か?「悪」とは何か?
自分の分身を演じていて、ゲーム上でそういった「人生」の難問に直面すると、
まさに自分の「人生」に起きたことのように悩み葛藤します。
そして、自分なりに正しいと信じた道を選択するのです。
良質なゲームでは、どちらの道を選んだとしても、間違いとなることはありません。
選んだ道に善し悪しはなく、
ただ進んだ先に選択した自分だけの結果や出会いが待ち受けるのみです。
 
おおっと・・・話が脱線してしまいました。
話を「ウィザードリィ」に戻します。
 
このゲームをやっていた小学生の私は、
人生についてこんな考察(というか妄想?)をしたものです。
自分が生まれた時に持っていた「能力」は、
与えられたポイントを自分の意思で割り振ったのかもしれない。
まあ、当時小学生なんで、なんの捻りもなく、
ゲームの設定を、そのままリアルの「人生」に当てはめて考えていただけなのですが。
 
更に、そこから妄想は広がります。
自分は与えられたポイントの総数自体は大きくない。
(この頃から、なんかコンプレックスを持っていました)
だけど、トリッキーなことが好きな(変わっている)自分は、
その少ない資源を王道の「能力項目」に割り振ることは控え、
あまり人から注目されないけど人生を生きる上で本質的な秘密の項目に、
重点的に割り振っているのではないか?と。
今は、体育も苦手だし友達を作ることも苦手で、嫌な人生を送っているけど、
いつか重点的に割り振った秘密の項目が役に立つんだと考えていました。
 
さてさて、子どもの頃そんな淡い願望を抱いていた訳ですが、
高校生、大学生、社会人になっても、そんな秘密の項目は発露しませんでした。
そして発露しないこの期間、
「人生」についてもっともっと深く考えるようになっていました。
 
そして、社会人として多くの経験を積み、
「人生」についての考察をブログに描き始めて1年半。
私は、生まれ持った「能力」や「才能」について、こんなことを考えています。
 
「能力項目」のポイントが低いことにも、「価値」がある。
人の生きる「苦しみ」をより深く体験することができるから。
そうすると、他者の「苦しみ」を理解し、その「苦しみ」を憎むことができる。
そうやって、「能力項目」の低い人々には、
「優しさの価値に気づける」というボーナスが与えられる。
 
私は、今でも自身の能力不足ゆえ、苦しい人生を送っていますが、
この「優しさの価値を知る能力」という「ギフト」には、十分満足しています。
この能力があれば、味わいのある素晴らしい人生を送れると感じているのです。
 
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