「我」思う故に「世界」あり
「我」思う、故に「我」あり
哲学者デカルトの有名な言葉です。
(ウィキペディアはこちら)
映画のマトリックスを想像してもらえると、この言葉をよく理解できるかもしれません。
はたして目の前の「世界」は、本当に存在するのか?
単にバーチャルリアリティ的に見せられている幻ではないのか?
はたして、今感じている現実が「夢」でないと言い切れるのか?
このように全ての「存在」を疑っていくことは、論理的に可能です。
しかし、実は一つだけ疑いようのない確かなものがあります。
それが、この「世界」の観察者である「私」の「意識」なのです。
ちなみに、他人の「意識」も幻の可能性があります。
信じられるのは、「私」の「意識」のみな訳です。
このように、デカルトはまず疑いようのない絶対のものに立ち戻り、
一から「世界」を解釈しようとしました。
実に、哲学者らしい考え方ですね。
ところで、近代の「量子力学」の発展により、
「意識」という概念が、「哲学」の範疇だけでなく、
「物理学」の中にも登場するようになってきました。
いわゆる「観察者効果」というヤツですね。
ウィキペディアには、
「観察」するという行為が「観察」される現象に与える変化を指すと書かれています。
「観察」するとはどういうことなのか?
そう。そこには、「意識」が絶対に必要となります。
例えば、ブリキのおもちゃは「観察」することができない訳です。
もちろん、ホンダのASIMO君でも無理。
逆に、「命」あるゴキブリやミジンコには「観察」が可能かもしれませんね。
「量子力学」では、「世界」は「観察」されることで確定します。
誰にも「観察」されていない空間は、様々な確率が重なり合った不安定な状態。
しかし、その空間を誰かが「観察」したら、ヒュバっと複数の確率の波が一つに収縮して、
目の前に確定された確かな空間が広がる訳です。
まあ、直感では理解しにくい世界だと思います。
詳しくは、過去ブログ「シュレーディンガーの猫」を読んでみて下さい。
さて、であるならば、
私たちの「意識」は、「世界」にとってとても重要な存在だと思いませんか?
何しろ、「意識」がなければ「世界」は確定することができない。
もっと言えば、「意識」がなければ「宇宙」は存在することができないはずです。
想像してみて下さい。
「生命」が一つも存在しない「宇宙」のことを。
その「宇宙」は、本当に「存在」していると言えるのでしょうか?
誰も「観察」するものがいない「世界」。
哲学的に思考して、その「世界」は「存在」し得ないと私は考えます。
これを読んでいるあなたは、どう考えますか?
さてもちろん、この「世界」がなければ、私たちは「存在」できません。
ただし、上記で見てきたとおり、
私たちがこの「世界」を「観察」しなければ、この「世界」も「存在」し得ない。
とすると、鶏が先か?玉子が先か?
「世界」があるから「私」がいるのか?
「私」がいるから「世界」があるのか?
実は、この答えは既に出ています。
哲学者デカルトが言ったように、「我」思う故に「我」ありなのです。
すなわち、絶対に「存在」するのは「私」の方。
だから「世界」は「私」の従属物に過ぎない。
「私」が先にあり、そして「世界」が生まれたのです。
さてこのように考察していくと、生きていく上で重要な教訓を得ることができます。
それは、「私」は「世界」に恐怖する必要なんて全くないってことです。
最近は「世界」に飲み込まれて、欝になる人も多くいらっしゃいます。
でも、「世界」ってそんなに恐ろしいものなのでしょうか?
ちゃんと「世界」を「観察」してみましょう。
例えば嫌なあの人の小言もしっかりと「観察」。
その小言は、あなたの「存在」を脅かすほどの力を本当に持っているのですか?
「世界」はあなたの認識次第で、どうとでも変わります。
「世界」に「意味」付けをしているのは、あなたなんですからね。
あなたの従属物である「世界」を、しっかりと正しく観察していきましょう。
「私」が「世界」の従属物であるという認識を捨て去ることで、
「幸せ」な生き方ができると私は考えているのです。
忘れてはいけない。
「世界」の創造よりも、もっと尊いこと。
それは、「あなた」がここに生まれたということ。