「理不尽」との向き合い方

「理不尽」との向き合い方。
「人生」とは何か?「幸せ」とは何か?というブログを続けている私からしたら、
この問いは、いつかは答えなければいけない問いです。
 
私は、ある母子家庭に毎月少なくない額を経済援助しています。
あるきっかけで出会ったその母子家庭。
しかしかれこれ2年間、ずっと会っていません。
 
母子家庭の子どもは、男の子です。
今は、小学校2年生。
私が会っていた当時は、小学校入学前でした。
 
その男の子は、私によくなついてくれて、
会うとすぐに足に抱きついてきたし、別れる時には泣いてくれました。
そしてある日男の子から、「パパになって欲しい」と頼まれたのです。
 
その頃私は、社会のレールから離れ経済力もなく、
母親からは暗にマンションの購入を期待されましたが、
それに答えることもできず、
月に1、2度、会って、その母子と昼食を一緒にとったり、
男の子が喜ぶような場所に遊びに行ったりしていました。
 
一度だけ、お盆に車で日光まで、1泊2日の旅行に母子を連れて行ったことがあります。
牧場で牛を触ったり、川でシャボン玉を吹いて遊んだり、長い滑り台を滑ったりしました。
車内で子ども向けのCDをかけて、子どもと一緒に歌ったりしました。
 
私の中で、一番素敵な思い出です。
 
元旦那の不倫で離婚した彼女は、毎月定額の子どもの養育費を受け取っていました。
もちろん、それだけでは生活できないのですが、
彼女は高校時代の教師と結婚し、ずっと仕事らしい仕事もしていなかったので、
働いてもすぐに辞めてしまうということを繰り返していました。
また、欝でもあり、いつしか働くこともできなくなりました。
生活保護の申請もしたようですが、クレジットカードの借入金があるらしく、
市から生活保護を断られたようです。
借入金があると、借入金の返済を優先してしまう可能性があるためだそうです。
 
上記のような事情から、その母子と会っていた当初から、
母親の経済的事情をサポートするため、毎月仕送りをしていました。
 
ところが、母親は私と会うことがだんだん疎ましくなり、
「体調が悪いから」というような理由で、2年前から会うことができなくなりました。
私も仕事が忙しく、ずっと会わないまま、経済的支援を続けてきた次第です。
母親とのやり取りは、携帯のメールで月1回。
「送金しました」→「ありがとう」といった文字の交換のみです。
 
もちろん、その男の子とも会うことはできていません。
最後に会った時に、その男の子に、
ビー玉を転がして遊ぶボール紙の迷路を作ってあげました。
ところどころ、迷路の中に登場する動物を男の子に作ってもらいながら、
迷路は完成し、その男の子は夢中になって、ビー玉を転がして遊んでいました。
そして、私は男の子に宿題を出したのです。
「じゃあ今度は、○○くんが迷路を作ってみてよ」
その子は、「わかった!」って言って快諾をしてくれました。
 
しかしそれ以来、私は男の子と会うことができなくなりました。
母親とのメールのやり取りによると、その子は自分の迷路を一生懸命作っていたそうですが、
結局私は、その子が作ってくれたビー玉の迷路をやることもできず、
「すごいね〜」って言って、頭をなでてやることもできなかった訳です。
 
あれから2年。
その男の子は、私のことも忘れてしまっているかもしれませんね。
ただ、その男の子の誕生日とクリスマスには、プレゼントを贈っています。
そして、定期的に図鑑を送るようにしています。
その子が、私からもらっていると告げられているかどうかは知る由もありませんが。
 
それでも毎月私は、その母子家庭に経済的支援を続けています。
私には、何の見返りもありません。
母親からは「ありがとう」のメールのみ。
会えないだろうかと相談しても、体調が悪いということで会うことはできません。
男の子の笑顔を見ることもできません。
送金して、想像の中でその子の「幸せ」を祈るのみです。
 
「親?バカ」な話ですが、その子は、とても優しい子なんですよ。
ある日、母親が「○○くんの好きな人は誰?」って聞いたら、
その子はこう答えていました。
「みんな好きだよ。ママも○○お兄ちゃんも、××ちゃんも、△△くんも・・・・」。
母親はその返答に対して、「ダメ!ママだけ好きになって。」と話していました。
 
「理不尽」です。
いろいろなことが。
 
「理不尽」とは、逃れたくても逃れられない「苦しみ」。
今回のように「護りたい人」がいたり、何かの事情でそこから動けなかったり。
 
今、「理不尽」に苦しんでいる人へ。
逃げられるなら、そこから逃げなさい。
生きるのに最適な場所を目指して数千キロも移動する渡り鳥のように。
それがベストです。「人生」は短いのです。
自分にとってベターな場所を身にしみて理解したなら、そこを目指して転進しましょう。
「生きる場所」を自分で探し当てる。
これは、人として最低限実現すべき能力です。
自分の「強み」を見つけ、己を活かせる場所を探し当てましょう。
「お金」や「世間体」よりももっと大事なものがあると、
その「理不尽」から学んだでしょう?
「何が一番大切なのか?」
それが一番重要なのです。少なくとも、その部分だけは「理不尽」に感謝しましょう。
 
今、「理不尽」に苦しんでいる人へ。
逃げられないのなら、その場所でシンプルに強くなるしかありません。
与えられた場所で生き抜く雑草のように。
黙々とできることを積み重ねて強くなることが、生きるための戦略です。
強くなって、その「理不尽」を変容させる。もしくはひっくり返す。
そして「強さ」には、様々な要素があります。
一番重要なのは「人間的成長」と考えますが、
他にも組織の中での絶対的影響度、パワーバランス、経済的パワー等。
必要な「強さ」とは何か、じっくり考えて進むことも重要でしょう。
 
上記の2つの方法が「理不尽」との向き合い方だと、私は考えます。
しかし、渡り鳥は移動中に力尽きることもあるし、
雑草もその強い生命力をもってしても枯れることはある。
これは、厳然とした事実です。
途中で力尽きた人を見て、あざ笑う「理不尽」の元凶もいるでしょう。
 
それでも、懸命に生きたその姿は、誰よりも「美しい」。
私は、そう考えます。
人の価値は、生まれ持った「才能」でも、成し遂げた「偉業」でも、ありません。
懸命に生きたその命の「美しさ」です。
どれだけ美しく燃えることができたか?
 
護りたいものを護りましょう。
自分のためでなく、他者のために「理不尽」を受け入れた人の「心」は何よりも美しい。
 
「人生」の最後に残るものは、生きた証の美しい「結晶」。
その「結晶」を信じて、日々を生き抜きましょう。
この「結晶」よりも価値のあるものはない!と、私は断言します。
 
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