「意識」を2で割ると? 「意識」を2で掛けると?

面白い本を見つけました。
 
その本は、「0と1から意識は生まれるか(橋本淳一郎、早川書房)」です。
 
この本は、科学の最先端の知識の中から、
難しい理論や数式等を使わずに、
我々の知的好奇心を満たしてくれるお話を紹介してくれます。
 
例えば、私が過去ブログで紹介したペンローズの量子脳理論なんかも登場します。
 
「私って何?」「この世界って何?」って日頃から考えている方には、良書です。
 
さてこの本の中で、「そうだったのか!」と思ったことがあったので、
紹介しようと思います。
それは、AさんとBさんの脳みそをつないだら、
AさんとBさんの「意識」はどうなるの?というお話です。
 
常識的にかつ直感的に考えると、
「テレパシーが可能になるのかな?」ってことが予想されます。
Aさんが「お腹がすいたなぁ」と考えると、その考えがBさんに伝わるというふうに。
 
ところがどっこい実はこの本によると、常識的でも直感的でもない回答が予想されるのです。
 
この問題を考察するにあたり、「分離脳」という事例を見ていきましょう。
(「分離脳」のウィキペディアこちら
かつて、てんかんの治療として、
右脳と左脳を結ぶ脳梁と呼ばれる部位を切断する手術がありました。
この右脳と左脳を手術により分離された状態が、「分離脳」です。
 
もちろん、こんな非人道的な手術は現代では行われていません。
しかし、てんかん発作の猛威を減らすことにより本人の物理的な損傷を防ぐために、
昔には行われていたのです。
 
この「分離脳」となった方々には、一般の方々とは異なる特徴がありました。
 
例えば、「分離脳」となった人の左視野に絵を置いて、
何の絵か答えてもらうという実験を行った時、
「分離脳」の人はうまく答えられませんでした。
なぜなら、左視野の映像は右脳で受け取るのですが、
言語を優位的につかさどっている左脳には右脳から映像情報が行かないため、
言語として答えることができなかった訳です。
 
また、「分離脳」の人の左の耳にだけ「ジュースを買ってきて下さい」と伝えたとします。
で、その人はジュースを買いに行くのですが、
ジュースを買ってきてもらった後に、
今度は右の耳にだけ「なんでジュースを買ってきたのですか?」と質問をします。
すると、「喉が渇いたから」という動機を作って回答するのだそうです。
すなわち、左の耳とつながっている右脳は、
「頼まれたからジュースを買いに行った」という意思を持っていたのに対し、
後から「なぜ買ってきたのですか?」と質問された左脳の方は、
実際に行った行動につじつまを合わせるため、偽の動機の作ってしまったのです。
しかも左脳は、それが本当の動機だったとリアルに認識しています。
 
自分の行動の動機をバラバラに認識する左脳と右脳。
これはもはや、左脳と右脳は別々の意識を持っていると言っても過言ではありません。 
すなわち、「意識」は2つに区分すると、それぞれに「意識」が宿ることになる訳です。
ですので、「意識」を2で割ると、2つの「意識」ができあがるということになります。
 
では反対に、「意識」を2で掛けるとどうなるか?
すなわち、「意識」+「意識」ですね。
 
答えは、1つの「意識」となります。
なぜなら、「分離脳」で分離した左脳と右脳を再度つなげてあげれば、
2つのバラバラの「意識」が、1つの「意識」に統合されることが容易に想定できるからです。
 
であるならば、Aさんの脳とBさんの脳をつないだらどうなるか?
やはり、「意識」+「意識」=「意識」です。
AさんとBさんの「意識」が統合された一つの「意識」が生まれます。
つまり、「意識」とはパーテーションに区切られた領域に過ぎないのです。
 
このような考え方に従えば、多重人格者の不思議は容易に解決できますね。
幼い時の虐待経験により、脳の中にパーテーションが作られてしまった訳です。
あたかもパソコンのハードディスクに「Cドライブ」や「Dドライブ」を作るように。
 
であるならば、
ユングの「集合的無意識」という考えもバカにできなくなります。
集合的無意識に関するウィキペディアこちら
表面的には分離されている私たちの「意識」も、
根の「無意識」の部分ではつながっているかもしれない訳ですね。
 
更にイマジネーションを進めます。
区分されて始めて存在する「意識」は、あたかも液体の「水」のようではありませんか?
例えるなら、私たち一人ひとりの「意識」は、
遺伝子の用意したコップにつがれた「水」です。
コップによって、意識は様々な形や大きさとなります。
また、コップの側面に穴を開けて、他のコップの側面とチューブでつなぐと、
中の「水」同士がつながって、一つの「水」となる訳です。
 
もし「意識」が「水」ならば、
「意識」の「海」や、「意識」の「川」、「意識」の「雨」があるかもしれない。
人の「意識」は、死んでコップが割れると、「意識」の「川」に流れ込み、
やがて「意識」の「海」に辿り着くかもしれない。
「意識」の「海」は、大いなる「一つの意識」。
そして、いつしか「意識」は「雨」となり、遺伝子の用意したコップに再び流れ込む。
しかし、その新たにコップに流れ込んだ「意識」は、
全く新しい組み合わせの「意識」な訳です。
「意識」が「川」や「海」に流れ込んだ段階で、
自分を形成していた「意識」は、
もうその他大勢の「意識」の流れに統合されて区別することはできないですから。
コーヒーにミルクを注いだカフェオレから、ミルクだけを取り出すことが不可能なように。
 
いささか、SFファンタジー的な話になってしまいましたが、
実は、上記のような考え方をしているのが原始仏教です。
手塚治虫の「ブッダ」にも、その考え方が登場します。
 
「死」とは、コップ1杯の「水」を「川」に流すようなものです。
「川」に流したら最後、コップにあった「水」だけを再び取り戻すことはできません。
しかし、「水」は決して「無」にはなっていないことも確かなのです。
そして、いつしか大いなる「海」に流れ込み全ての「水」と一つになる訳ですね。
 
今日は、途中から全く科学的でない妄想の世界に入っていってしまいましたが、
私は結構上記の「命」に関わる考え方を気に入っています。
「死んだら無になる」という考え方よりも、よっぽどしっくりくると思うのです。
 
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