「信」の「本質」

「信」という言葉が、私のブログに増えてきています。
きっと「信」という言葉の中に生きる上での重要な「本質」が隠されているに違いないと考え、
今日は、つれづれなるままに「信」について考察していこうと思います。
 
「信」という言葉から連想することは何でしょうか?
私は、まずキリスト教を連想しました。
「あなたは神を信じますか?」
それからこんな言葉がキリスト教の聖書にあります。
「信じない者にならないで、信じる人になりなさい」「見ずに信じる者は幸いです」
これは、イエスゴルゴダの丘で処刑された後、復活した際に、
弟子の一人トマスが、復活した人物がイエスかどうか疑い、
処刑された時の傷を見せて欲しいとイエスに伝えたのですが、
その際に、イエスから発された言葉です。
 
日本人には「信者」という言葉に抵抗を持つ人も少なくありませんが、
それは、単に宗教を差別しているのではなく、
「見ずに信じる」ことの怖さを感じているからなのではないかと考えます。
 
しかし「信じる者は救われる」という言葉にあるとおり、
「信じる」ことのできる対象がある人は「幸せ」でもあるとも思う訳です。
 
私たちにとって「信」は、最も根源的な人とのつながりの要素であると考えます。
それは、子どもが生まれて初めて抱く感情が親への「信」だからです。
驚くことに、「信」は親からの「愛」よりも先に、
一番最初に人間が持って生まれるものだったりします。
この訳の分からない世界に生まれてくるにあたり、
親の「愛」を受けるため、「信」は子どもに与えられた「命綱」とも言える訳です。
 
しかし、生まれて持ってきた「信」は、外部環境によってどんどん崩されていきます。
これについては、皆さんも身に染みて体験済でしょう。
全ての人々は、「世界」を疑い始めます。
しかしそういった中で、
「お人好し」と呼ばれる人々は「信」をまだ色濃く持っていると言えるでしょう。
 
この「お人好し」、実は面白い性質を持っています。
「お人好し」は「他者」や「世界」を「信」じる一方、
「他者」からも「信」を得やすいのです。
ですから、「お人好し」の感じる「世界」は、
「疑い深い」人の感じる「世界」よりも快適であると思います。
「信」を他者に与えることは、リスキーなことですが見返りもあるということです。
だから、「お人好し」な人々は「理不尽」に傷つけられながらも、
「世界」を、「他者」を信じて生きています。
 
私は、人との「つながり」とは、お互いに「信」を与え合う関係であると考えます。
常識的に考えれば、「つながり」を持たない方が、安全で安心です。
自分を裏切ったり、自分に刃向かったり、そういった行為への恐怖が強い人は、
「つながり」を持たない方がよいように思います。
「つながり」が「信」を与えるという行為なら、それはとてもリスキーなことだからです。
言うまでもないことですが、
「信」を与えたくないけど「信」が欲しいというのは「つながり」ではありません。
 
摩擦のない物理世界があり得ないのと同様に、
「つながり」を持った人同士の間にも「心」的摩擦は、どんな間柄であれ絶対に発生します。
「信じる」ことのリスクを乗り越えて、「つながり」の「幸せ」を手に入れたいのなら、
「つながり」の相手をどこまで「信じられる」かが勝負になるし、
多少の期待はずれの言動には許容をしていこうという「寛容さ」も重要です。
 
 「信じられたければ、信じなさい」
 
私は、少しの罪を犯しただけで苦しんで生きてきた人々を地獄に落とすような、
寛容の精神がない神様を信じる気にはなれません。
自分だけを一方的に「信じろ」と言うのは、傲慢です。
 
「あなたは、神を信じますか?」と話しかけるよりも、
「神は、あなたを信じています」と話しかけた方が、
耳を傾ける人も多いかもしれませんよ。
 
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