「普通」に生きてはダメ

「普通」に生きたい。
私は、ずっとそう思っていました。
 
自分は「普通」でないから、「幸せ」になれないんだ。
私は、ずっとそう信じていました。
 
だけど、「普通」を追っていたら、
「幸せ」どころか「不幸」になることに気づきましたよ。
 
「普通」になるというのは、
「自分」を放棄して、皆と同じ「仮面」をかぶることです。
 
イメージしてみて下さい。
皆と同じ「仮面」をかぶっていれば、「安心」できますか?
だけどずっと「仮面」をかぶって生きていくことに、漠然とした不安を感じませんか?
それは、本当に「生きている」と言えるのでしょうか?
 
もちろん、社会で協調して生きていくためには、「仮面」が必要です。
自身の「本能」を解放して生きてしまったら、
社会からはじき出されます。
 
「本能」を自分から引きはがすことはできませんので、
「本能」を放し飼いにして他者を傷つけないという観点からは、
「仮面」をかぶることは重要です。
 
社会において「普通」という「仮面」が尊ばれる意味は、
この一点にあります。
しかし、このように「普通」の本質を考察していくと、
「本能」を制御する以外の理由で「仮面」をかぶることはナンセンスだと私は感じます。
 
自分が生まれた時に、この「世界」に持ってきたもの。
それは、自分の「良心」と「才能」です。
それと、「本能」ももれなくついてきます。
「名前」や「生まれた環境」は、生まれた後に与えられるものなので、
「真」のあなたの実体は、「良心」と「本能」と「才能」の3つに分解されるのです。
 
「○○さんとは、どういう人ですか?」ということを語る時に、
上記の3要素を説明すれば、その人の正体を説明しきれると私は考えます。
ですので、自分とはどんな人間なのか?ということを考察する時にも、
上記の3要素で考えると、自分の「核」を理解できる訳です。
少し解説すると、「本能」について考える時は、
各種「欲望」が強いか弱いかをイメージするとよいと思います。
「欲望」の種類は、キリスト教が提示する「7つの大罪」で考えてみるとわかりやすいです。
 
そして、これらの自分の「種」を考察した後に、
自分が埋まっている「土」はどんな土なのか、
その「土」に対してどんな「根」を生やしてきたのか、
はたまた今までどのように「葉」を茂らせてきたのかを考える訳です。
 
そうすれば、自分を解明できます。
「自分探しの旅」よりも、ずっと効率がいいです。
 
そして大切なのは、探す順番。
まず「種」から把握して、「土」→「根」→「葉」を理解していく。
そして、そこまで理解すると、自ずと自分が将来咲かせる「花」を理解できるのです。
 
話が脱線してしまいましたが、
このように自分を理解すれば、
自ずと「普通」という「仮面」に興味がなくなります。
そして、自分に相応しい自分だけの「仮面」が明確にビジョンとして頭に浮かぶのです。
 
社会生活をする以上、そして「本能」というやっかいものを飼っている以上、
「素顔」のままは、やっぱりダメですよ。
 
自分のために完全にオーダーメイドした、
力強く優しく快適で楽しいわくわくするような「仮面」。
そんな世界に一つの「仮面」を見つけませんか?
 
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