「7つの大罪」に一つ足りないもの

前回に引き続き、「7つの大罪」のお話です。
 
私は、人の「心」は「良心」と「欲求」に二分することができると考えています。
そして世の中には、
「良心」に自身の本質があり「欲求」と同居していると考えている人々と、
「欲求」に自身の本質があり「良心」と同居していると考えている人々の2種類が存在する。
 
さて、「欲求」はキリスト教の「7つの大罪」で分類するとわかりやすいというお話をしました。
すなわち「欲求」は、
「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」の7つに分類できるのです。
 
キリスト教は、
長い長い年月をかけて当時最高の頭脳の神学者達が研究を深めていった哲学でもあります。
その中で導き出された「7つの大罪」は、
本質的に人間の「欲求」を喝破していると考えてもいい訳です。
 
しかし私は、一つだけまだ足りない「欲求」があると考えています。
何だと思いますか?
 
それは、一神教ゆえにタブー視されなかった「欲求」。
そう、「不寛容」という「欲求」です。
 
「人」は「不寛容」という「欲求」に惑わされると、
他者に理不尽を与え己の成長を阻害してしまう、と私は考えます。
「不寛容」とは「異物」を排除したいという「欲求」であり、
魔女狩り」や「村八分」「いじめ」にも通ずるえげつない「欲求」です。 
(関連過去ブログ:「生理的忌避」と「バベルの塔」
今世界で起きている「宗教戦争」や「人種差別」「弱者差別」等の大きな厄災は、
この「不寛容」がまきおこしていると言っても過言ではありません。
 
ところで、私は「変わり者」です。
ですので、社会の中で「不寛容」の存在を深く味わって生きてきました。
ある人は、私の「中身」を見るまでもなく、「変わっている私」を嫌い、
ある人は、「変わっている私」を気にせず、私の「中身」を見てくれた訳です。
 
「不寛容」が他者に加える精神攻撃は、なにげに「心」を浸食します。
攻撃を受けた他者もその「不寛容」に「理不尽」を覚え、
相手のネガティブなパワーに呼応し相手を嫌ったり恨んだりするものです。
私も、「不寛容」の「欲求」を制御できない人に対しては、
いまだに尊敬の念を抱くことができません。
 
私自身ネガティブなパワーに引きずられないように、
「不寛容」を客観的に考察する必要があるようです。
前回ブログで考察した「色欲」と同じく、
「不寛容」という「欲求」が生まれつき大きい人もいるのだと考えます。
 
ただし「不寛容」が生まれつき強い人に言いたいのは、
「不寛容」が自身の「本質」だと考えているうちは「成長」は生まれないということです。
是非、「陰陽の図」を頭に思い浮かべ、
「異物」を受け入れると得られる「気づき」の楽しさを想像して欲しいと思います。

 
永続的な「幸せ」を得るためには、「良心」の側に立つことが重要です。
「欲求」の側に立っていては、一時的な「快楽」は得られても、
永続的な「幸せ」が手に入りません。
そのことは、「欲求」の8つの顔ぶれを見ればわかることです。
「快楽」が去った後には、「虚無」しか残りません。
そして、麻薬のようにもっともっと欲しいと「快楽」を求めるのです。
そしてこの麻薬は、世界に「理不尽」をもたらします。
悲しいことに、人々は他者を傷つけてでも「快楽」を実行しようとするからです。
 
今こそ「不寛容」への研究が重視されるべき時代だと、私は考えます。
この辺については、一神教以外の宗教から得られる情報が多いと思われるので、
仏教で「不寛容」をどのように捉えているのか調べてみたいと考える次第です。
 
そしてこのブログにて、
「不寛容」の「本質」について「世界」に投げかけをしたいと思います。
今「不寛容」は、皆で力を合わせて突破すべき「世界」の「試練」だと考える次第です。
 
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