「心的エントロピー」

言語化するのが難しく、
またどのような法則なのかよくわからなかったので、
今まで描かなかったことがあります。
それは、私は人と接する時に直感的に「あるもの」を感じるということです。
 
それは、その人の「芯」の温度。
 
すなわち、世の中には「芯の温かい人」と「芯の冷えた人」が存在する。
少なくとも、私にはそんな風に感じます。
 
どんな風に感じるかと言いますと、
子どもは皆、熱いくらいに「芯が温かい」です。
でも大人になると、「芯の冷たい人」と「芯の温かい人」が入り混じってくる。
 
「芯の冷たい人」のそばにいると、無意識に落ち着かなくなります。
逆に「芯の温かい」子どもや人のそばにいると、なにか安心する。
また、「芯の冷たい人」は他者から生きるエネルギーを奪っているように見え、
「芯の温かい人」は他者に生きるエネルギーを与えるように見える。
 
例えば、「芯の冷たい人」は、
必要な時には、それが感情的か理論的かにかかわらず、
他者の「心」を傷つける言葉を躊躇なく発する。
「感情的に怒る」よりも「理論的に叱る」ようにしなさいと、
よく世間一般では言われますが、
イメージとしては、
「芯の冷たい人」は「理論的に叱る」タイプの人であっても、
相手を追い詰めるように相手の「心」の消耗や傷を目的として相手を叱る。
叱る相手の「価値」を自身と同等と考えず、
ある意味動物を「躾け」るように人と接することができる。
逆に「芯の温かい」タイプの人は、
例え「感情的に怒った」としてもどこかに相手への温情が感じられる。
 
こんな風に描いていくと、
「芯の温かい」「芯の冷たい」の法則は、
単に「心が温かい」「心が冷たい」と連動していると思われるかもしれませんが、
それも少し違うのです。
うまく言葉では伝えにくいのですが・・・
 
例えば子どもは、ただそこにいるだけで人々の「心」を満たしてくれます。
そして、その「芯」は熱いくらいに温かい。
ものすごい熱い「芯」があるから、太陽のように周りの人々の「心」も暖められる。
一方、「芯の冷えた人」はエントロピーの法則に従い周りから熱を奪う。
太陽の終末期の「白色矮星」のように冷えていく存在。
 
もしかしたらこの「芯の温かさ」は、
「命のエネルギーそのもの」である「成長」と関係しているのではないかと、
最近は考えるようになりました。
 
言うまでもなく、子どもは「成長」のエネルギーに満ちた存在です。
しかし「体」の「成長」が止まった大人は、
「成長」を継続する人と「成長」を止めてしまう人の2種類にわかれる。
「体」の「成長」は止まっても、「心」はずっと「成長」できますからね。
 
思うに、私が直感的に感じていた「芯の温かさ」とは、
「成長」のエネルギーなのではないかと。
「心」の「成長」を閉ざした人の「世界」はそこで完成されています。
「心」の「成長」を閉ざした人の「世界」は唯一無二の不変不可侵の聖域です。
一方「心」の「成長」を継続する人々の「世界」は、まだ閉じていない。
そこには、まだまだ「命のエネルギー」が存在する。
 
「亢龍悔いあり」という慣用句があります。
中国では龍は天に昇るものとされ、
「昇龍」という言葉は縁起物として扱われます。
しかし、昇り切ってしまった龍は「亢龍」と呼ばれ、
縁起の悪い言葉として扱われるのです。
なぜなら、昇り詰めてしまえばもう昇ることはできず後は下降するしかないからです。
 
「龍」でない我々一般人には、
「昇り詰める」なんてとてもできないと思うかもしれませんが、
私の目から見ると、
自身の「世界」で昇り詰めてしまっている人々は結構多くいるように感じます。
 
「成長」をやめたらそこで「人生」は終了なのですよと、私は思うのです。
 

 
Support Wikipedia