「恋愛」を苦手とする男が考える「恋愛」論

今回は、私の最も苦手なジャンルのお話をします。
ですので、読んでいる皆様の方が、
よっぽど私よりも深く理解しているんじゃないかなと思う次第です。
なので、いろいろと突っ込みどころも多々あると思います。
 
まあ、とは言え、恋愛も「人」と「人」との営み。
文章に描いてみることで、様々な発見や気づきもあるかもしれません。
 
そんな訳で、「恋愛」論のスタートです。
 
さて、「恋愛」とは何でしょうか?
 
以下の3つの要件を満たすものですかね。
(1)「人生」を分かち合い、そして共に歩むこと。
(2)お互いがお互いの「心」を受け入れ「承認」し、お互いの「心」を支え合うこと。
(3)それから、性交渉。
 
(3)はともかく、(1)と(2)がないと「恋愛」とは呼べないと思う次第です。
(1)については、お互いの「時間」を共有するということ。
例え「結婚」していない恋人同士の仲だって、
デートやメール等で、お互いの「時間」を共有することに変わりはありません。
(2)についても、これがなければ「恋愛」とは呼べないでしょう。
相手の「心」や「魂」を「承認」できなければ、
そこにはお互いの「苦痛」しか生まれません。
相手を「承認」できない時、自分が「承認」されていない時、
そこに「恋愛」は成り立ちますか?
 
さて、「恋愛」は「人生」の重要なページを構成します。
であれば、「恋愛」は「人生」の一部として包括される訳です。
そうした時に、「人生」=「成長」と捉えている私は、
「恋愛」も「成長」だと考えます。
 
「成長」なきところに「恋愛」は存在しない。
そして「恋愛」における「成長」は、少し「特別」なものである。
 
どう「特別」かと言うと、
そこには強力な「縁」が存在し、
誰よりも強く相手の「心」を受け入れ、
誰よりも強く相手の「心」を支えたいと願う点が特別です。
 
「誰よりも強く」ですから、
ふたまたをかける「恋愛」には、
「恋愛」特有の「特別」な「成長」要素が霧散するため、
その関係は、「人生」における「真」の「恋愛」ではないと考えます。
「恋愛」とは、「成長」するための特別練習室なのです。
「他者」のために生きる「喜び」を、最も強く感じることのできる特別練習メニュー。
 
「自分」でない「他者」が、どれだけ大切な存在なのか。
そして、「他者」とつながることが、どれだけ「喜び」に満ちたことなのか。
結局、「世界」で一番大切なものは何なのか?
 
「愛」。
特定のパートナーに向ける「愛」も、「世界」の命ある存在に向けられる「愛」も、
本質的には一緒であると、私は考えるのです。
「愛」を与え、受ける「信」。
この関係は、どんな「愛」でも一緒なのですから。
 
だから、私も含め「恋愛」が苦手な人には、こんなメッセージを伝えたい。
 
例え、たまたま今の人生で「恋愛」に巡り会えなかったとしても、
あなたには、この「人生」で他に体験すべきとても重要なことがあるのです。
そいういった意味で、あなたの「人生」には「特別」な「使命」があります。
「恋愛」も一般的な「他者への愛」も、同じ「愛」。
そしてそれらから受ける「信」や「喜び」も、全く同じもの。
性交渉による「喜び」なんて、
「愛」を与えることで受ける「喜び」の前には「無」に等しい。
是非あなたにも、あなたにしかできないあなただけの「愛」を体験して欲しい。
絶対に、涙が出るほどの素敵な「人生」があなたには用意されています。
 
どうか、「愛」を「信」じて。
 
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