「知」「情」「意」
「知情意」という言葉をご存じでしょうか?
この言葉は、哲学者カントが提唱しました。
カントは18世紀のドイツで活躍した哲学者です。
この時期のヨーロッパは、キリスト教的価値体系が絶対的な権威を持ち、
「世界」や「人」の解釈は、全て聖書でなされると考えられていました。
しかし、このキリスト教で全てを解釈しようとする「思考停止」状態に疑問を感じ、
人間の力で解釈しようとしたのがカントという哲学者なのです。
(ウィキペディアはこちら)
「カントが神を半殺しにし、ニーチェが神を殺した」というジョークがあります。
それまでの絶対的なキリスト教的価値に反旗を翻したカントの存在があるからこそ、
今私たちは科学や自由を享受して生きていられるのだとしみじみ思う次第です。
特に私のような人間にとって、
自由に「考察」し発信することを許される今の世の中は本当にありがたいと思います。
聖書によれば「人」とは、生まれながらに原罪を持つ神の僕です。
しかしカントは、自身の頭脳によって「人」を解釈し直しました。
その解釈が「知情意」という訳です。
それでは、「知情意」について詳しく見ていきましょう。
「知情意」とは、人間の「心」の3つの働きを示した言葉です。
すなわち、「知性」「感情」「意思」。
これらは、同等の価値を持つとされています。
しかし、今の社会では「知性」が恐ろしく偏って重視されているのです。
学校で教えることは「知性」ばかり。
「感情」や「意思」については、教えてくれません。
ようやく最近「EQ」という言葉が注目され、
「感情」も少しだけクローズアップされるようになった訳です。
また「意思」の重要性も、周知されてはいます。
「意思」とは、「私は何をなすべきか」という問いへの答えです。
社会に出た皆さんなら、実感できると思いますが、
優秀な従業員を「知性」のみで定義することはできません。
「知情意」揃って、優秀な従業員なのです。
しかし、「知性」ばかりを追求してしまった日本社会は、
今そのツケを払わされています。
優秀な人材とは「知性」に優れた者だという思想で、選抜の基準が設けられた官僚制度。
その結果、日本の高級官僚は「知性」ばかりは優秀な人々で構成されるようになりました。
その結果、「感情」の欠如による「モラル」の崩壊や
「意思」の欠如による「私利私欲」への追従が起きてしまっているのです。
自浄作用がなかなか期待できない官僚組織の是正は、
政治家と我々有権者が行うしかないと思っています。
私の今回選挙の投票先の判断基準は、
「いかに現代の頑強な官僚組織を破壊できるか」です。
さて、どんなに無茶をしても許される行政の組織は置いておいて、
我々民間の企業は貪欲に真に優秀な社員を育成もしくは採用しないと生き残っていけません。
そうした時、「知情意」のバランスを考えた人材戦略が大切であると考える次第です。
「知性」は、その従業員の役割に応じたスキルやノウハウの習得。知識的優位。
「感情」は、職場の仲間やお客様、取引先への「貢献意欲」「優しさ」。情緒的優位。
「意思」は、役割を全うしようとする「使命感」「プロ意識」。意識的優位。
これら3つを満たした従業員を想像してみて下さい。
職場の仲間やお客様からの「信」を集める、最高の従業員だと感じませんか?
また、この3つを達成したら人格は完成されたも同然。
この時、本人の「幸せ」な「人生」も達成されると考えます。
お子さんを塾に通わせている方々に提案したいのですが、
是非「知」の他に、「情」と「意」の成長にも「心」を配って頂けるといいのかなと
思う次第です。
きっと、お子さん本人の「幸せ」にもつながるから。
もちろん、自分自身もセルフチェックしなきゃなと思います。
はたして私の「知性」は、今の「世界」の中の自身の役割から見て足りているか?
はたして私の「感情」は、常に他者への「優しさ」と「貢献意欲」に満ちているのか?
はたして私の「意思」は、与えられた「才能」を最大限「世界」に発揮する覚悟を有しているか?
こんな風に私は、
先人の残してくれたコンパスを手に、悩み考察し、「幸せ」を目指します。
ようやくここまで辿り着けたという実感や達成感が、確かに存在するのです。
そう、それはまるで山登りのように。
登った先に開ける「景色」は、とても美しい。
是非、皆さんにも「おいで」「おいで」をして、見て欲しい「景色」です。