「人生」に「テーマ」はありますか?
私の大好きな漫画に「ハンターハンター」という漫画があります。
各キャラクターが非常に魅力的で、とてもエンターテイメント性の高い、優れた作品です。
優れた作品を産み出す作者には、
必ず「人生」に対する深い独自の「考察」が存在すると、私は思います。
漫画だけでなく、文学も当然そうでしょう。
それから、絵や音楽等の芸術にも当てはまる。
それどころか、優れた経営者にも。
必ず、一流の人達は「人生」論を持っている。
私は、そういった優れた方々の「人生論」を感じることが好きです。
そして、可能であれば「吸収」する。
私は「人生」への「考察」を日々深めている人間なので、
そういった他者の優れた「人生論」も
バクテリアのように分解しスポンジのように吸収することができる。
さて、話を「ハンターハンター」に戻しましょう。
「ハンターハンター」の最新刊32巻にて、
以下のような、あるキャラクターの独白がなされます。
魂はおそらく「小さい」が くり返すだけのエネルギーを持っていた それじゃオレはくり返すために生まれ変わったのか? ここから先はわからない・・・だから 全てオレの感覚と想像でしかないが 「くり返しちゃだめだ」と オレの中のどこかが言ってくる おそらく くり返したりやり直したりしなきゃいけないのは 生きている内に心に与えるべき何かが足りなかったからだと思う |
「輪廻転生」的世界観ですね。
私は、作者自身の独白ともとれるこの箇所にとても惹かれました。
「なるほど」と。
漫画の作者や芸術家のようなイマジネーションの豊富な方々は、
「この「世界」が「物理法則」のみで動いていない」と直感的に感じていると思います。
この「世界」にはもう一つ、「精神」的法則で動く場があると。
「心」は、「物理法則」で力を加えて左右に動かしたり、炎で熱したりできませんからね。
だから、「物理」万能論の方々は、「心」は「幻」であると言う。
物理学で干渉できない「心」なんて、実は存在してないんだと。
こういった意見には、「う〜ん、イマジネーションが足りないな」と私なんかは思うのです。
理屈にこだわりすぎて、確かにここに実在する「心」まで感じられなくなるなんて・・・
さて、「輪廻転生」に話を戻します。
もし「物理世界」とは別に「精神世界」が存在するにしても、
やはりその「精神世界」も合理的であろうと私は考えます。
だから、「聖書」的な「神様が何でも創りました!」というお話は、何か違うと思うのです。
それよりも、仏教の「輪廻転生」の方が、
私たちの「心」の奥の渇望にも対応していて説得力が高いなぁと感じています。
さて、仮に人が「輪廻転生」するとして、それは何故か?
この「ハンターハンター」には、それが描いてあります。
作者の富樫さんの「考察」として作品内で説明されているのが、
放っておけばくり返す「魂」の性質です。
そしてそのくり返しは、よいものではない。
そこから脱するために、日々苦しみながらも「人」や「生命」は生きているのだと。
私は、この「考察」になるほどと「納得」しました。
私の生きてきた「感覚」にもあっている。
人々は、各自の人生の「テーマ」を解決するために、生まれた。
「成功」するためでもなく、
もっと言ってしまえば今生の「人生」で「幸せ」になるためでもなく。
私の「テーマ」は何だろう?
自身をブログで見つめ始めて2年超。
私には、「テーマ」がすぐに見つかりました。
哲学者カントによれば、「人」の「心」は「知性・感情・意思」の3つに分解できる。
すなわち、「知情意」です。
私は、「知性」と「感情」については、「人生」の「テーマ」にするほど困っていない。
「知性」は、最も重要な「知性」である「生き方」の模索では、おそらく他者よりも進んでいる。
「感情」も、有難いことに私は生まれつき「優しい」。
しかし、「意思」が決定的に足りない。
誰かのために頑張ることはできても、自身が「道」を決め進むことができない。
私は、もっともっと自身を磨いて、多くの苦しむ人々に「貢献」すべきなのに。
私の「人生」の「テーマ」は、「意思」を育てることです。
「意思」を育てあげたときに、私の「心」は三位一体となり、
もしかしたらこの「くり返し」から離れることができるのかもしれない。
さもなくば、来世でも「意思」の弱さに苦しめられることでしょう。
ならば、この「人生」で決めてしまおう。
「人生」に「テーマ」を感じるためには、
「人生」が複数あるという「考察」の前提が必要です。
「人生」が一度しかないなら、「快楽」にまみれてやりたいように生きればOKでしょう。
あなたは「人生」に「テーマ」を感じますか?