「承認」の「本質」

私は、誰よりも「承認」をうまくできると自認しています。
なぜなら、私は「承認」の「本質」を知っているから。
 
一つ質問です。
あなたは、道ばたに落ちている石を「承認」することができますか?
 
 
・・・私には、できません。
 
なぜ石を「承認」できないかと言うと、石は「生きて」いないからです。
一方、「人」や「生命」は、石と違って「一生懸命生きて」います。
さて、この「一生懸命」というのが、「承認」の「本質」を知る上での鍵となります。
 
あらゆる「人」や「生命」は、ただ「生きて」いるのではありません。
この世に生まれてきた以上、全ての「命」が「一生懸命」に「生きて」いるのです。
このことについて、例外はありません。
 
「命」とは何かと問われれば、一言で言えば「一生懸命」のことであると、私は答えるのです。
 
気づいていますか?
どんな「人」も「一生懸命」生きているということに。
例えば、当然ホームレスの方だって「一生懸命生きて」います。
 
「承認」とは、この相手の「一生懸命」を認めることなのです。
「人」は「一生懸命」を受け入れてもらった時に、
自分の中の「命」をちゃんと見てもらっているように感じます。
逆に、「一生懸命」を無視した言動をとられたとき、
自分が「モノ」のように扱われていることを無意識に感じるのです。
 
例えば、サボってばかりで物事に対して逃げ続けているような「人」であっても、
その「人」も「一生懸命生きて」いることに変わりはありません。
「生きる」のが大変だから、サボりたくもなるのです。
だから、「○○があって、あなたも大変だよね。」と
「一生懸命」をちゃんと認めてから話しかけるようにすれば、
相手はあなたの「言葉」に耳を傾けてくれると思います。
もし頭ごなしにダメ出しして指示を出したら、
相手は「モノ」のように扱われたと感じ、あなたの「言葉」に耳を貸さないでしょう。
あるいは、指示の通りに動いたとしても、
それは受動的な「モノ」や「機械」のような動きでしかなく、
「心」のこもった自ら改善の伴う質の高い動きを望むことはできません。
「人」や「生命」は、「モノ」として扱われたら「モノ」として動き、
「人」として扱われたら「人」として動く存在なのです。
 
ですから相手の「一生懸命」を「当たり前」と見ていては、「承認」などできません。
もし、「心」のどこかで相手の「一生懸命」を認めることに抵抗を感じるのなら、
それはあなたの「心」が、自分の「一生懸命」すら認めていない可能性があるのです。
 
成績や業績や偏差値のような数字に「人」の価値が現れると信じ込まされている人達に、
上記のような傾向が見られます。
 
「自分は一生懸命生きている」
この素晴らしさを、理解できますか?
どんなに成績が悪くてもかっこ悪くても「一生懸命」であることは「美しい」。
だからこそ、あらゆる「命」は「美しい」のです。
 
ですので、「承認」が苦手な人は肩の力を抜いて、
まず自分の「一生懸命」を認めてみましょう。
あなた自身が、自分を「モノ」扱いしている可能性があるのです。
 
「モノ」は、数字によって「価値」が決まります。
しかし「生命」の「価値」は、数字なんかに左右されないのです。
 
Support Wikipedia