「心」と「モノ」の狭間で

私たち「人」は、「心」であり「モノ」であります。
 
「モノ」として、「体」を持ち、「遺伝子」を持ち、「本能」を持ち、「感情」を持つ。
一方、「心」として、「理性」を持ち、「愛」を持ち、「慈悲」を持ち、「良心」を持つ。
 
「心」と「モノ」という、全く別次元の存在が、同居し、せめぎ合い、干渉し合う。
その二者の構図は、陰陽図で表されます。

 
私は今まで、「人」の「心」側のみをクローズアップして、
ブログでお伝えしてきました。
それは、現在の「社会」が、大きく「モノ」側に偏ってしまっているから、
バランスを取るためにアンチテーゼとして、「心」側を強調する必要があったから。
 
だけど、「心」側のみで「人」を成り立たせようとしても、
それはやっぱりアンバランスで歪な存在になってしまう。
「心」側のみの理論は、この「世界」では成立しない。
 
まさに、
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない。(フィリップ・マーロウ)」
「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である(本田宗一郎)」
なのです。
 
「人」が、「心」と「モノ」の複合体であるのならば、
きっとそこには何かの「意味」があるのでしょう。
その「意味」を、「苦しみ」そして「成長」と私は捉えます。
 
「心」の「苦しみ」は、「モノ」のように扱われた時に生じます。
「偏差値」「年収」「ノルマ達成」等の数字で己の価値を評価され、
「お前の代わりはいくらでもいるんだ」と己の価値を無視され、
「外見」で勝手に己の価値を判断されて、
「心」は傷を負っていく。
しかし、上記の己に対する評価は、
「モノ」という観点からは正当な評価なのです。
 
「人」とは、「心」であり「モノ」でもあるのですから、
理不尽で苦しいことだけど、
「モノ」の部分に対する評価にも責任を持ち、
そして受け入れる必要があるのかもしれません。
 
そうして初めて、「心」は成長するのでしょう。
だから「モノ」の部分も、きっとおろそかにしてはいけない。
 
悲しいけれど、「想い」だけでは「世界」に何かを成すことはできないのです。
 
ただ、それでも私は「心」の味方をしていきましょう。
例え「心」と「モノ」の二者で「人」が構成されているとしても、
やはり「人」の「本質」は、「心」の方なのですから。
「モノ」を「人」の「本質」とするような動きには、
これからも異論を唱えていきます。
 
ただしこれからは、そうした「想い」を発信するためにも、
自身の「モノ」の部分も磨いていくつもりです。
「行動」なき「理念」や「言葉」は、無価値であり戯言なのですから。