「命」からしか学べない

去年の2月に、出会った一羽のハトのことを描きました。
(過去ブログ「みんな同じ生きているから」)
 
そのハトと多分同じハトだと思われるハトと、金曜日に出会いました。
彼(彼女?)の左足の指は、欠けてなくなってしまっています。
去年の2月に見た時は、糸が絡まってビッコをひいている状態でした。
多分、その糸がとれずに、指が壊死してしまったのでしょう・・・。
 
去年の2月と同様に、お客様の所からの帰り道、
少し疲れたのでパン1個食べてから帰ろうと、
駅内のコンビニでパンと牛乳を購入してベンチを探している時に、
人通りの少ない窓際の床に一人でペタッとお腹で座っているハトがいました。
 
そのハトのそばにベンチがあったので、
私はそこに腰掛けてパンを食べることにしたのです。
椅子に腰掛けてパンの袋を開いていると、そのハトが、
もしかしたらパンをお裾分けしてもらえないかと私の方に歩いてきました。
 
その時に、彼の左足の指がないことに気づいたのです。
「あ、あの時のハトだ」
私の記憶が、フラッシュバックのように戻りました。
その記憶は、以前パンをお裾分けした時に彼が私に向けた眼差し。
焼きつけられた写真のように、その時の光景は、
目をつぶるといつでも思い浮かべることができます。
 
去年会ったときに感じたことは、
彼の人(ハト)生への同情と、理不尽な容赦のない世界への憤りでした。
彼には枝につかまる指がないので、仲間と一緒にねぐらで夜寝ることも許されないのです。
 
だけど今回感じたものは、再開の喜びと、懸命に生きる一つの「命」への尊敬です。
 
私は、世界は「生命」と「モノ」の2つで構成されていると、常々考えています。
そして、私たちは「生命」の側にいる。
 
キリスト教は、「人」が主人公で、
「動物」は「人」のために創られた「モノ」に準じたものとして描かれています。
一方、仏教は、「人」も含めたあらゆる生命に、「慈悲」の「心」を持てと説きます。
輪廻転生で「命」は全てつながっていると考えている。
私やあなたは、
過去にハトだったことがあるかもしれないし、
これからの転生でハトになるかもしれないという考え方。
 
私は、仏教の考え方が直感的にしっくり来ます。
ゴリラのココやヨウムのアレックスのように、
言葉を操る動物が確認された訳ですし、
もはや人間と動物の間に線引きすることには無理があります。
(過去ブログ:「泣いたゴリラ」)
(過去ブログ:「人間とおしゃべりする動物」)
 
そして、世界を「生命」と「モノ」で区分して、
「命」というものを強烈に認識したとき、
「世界」は発見に満ち溢れるの。
私は、道を歩いていると、いつも「命」に目を惹かれます。
スズメやハト、カラス。
街路樹や雑草、キノコ。
散歩中の犬や、野良猫。
彼らに目線を送るだけで、何だか会話しているような気分になるのです。
 
彼らの、陽気な仕草やさえずり、そして美しい花に元気をもらっています。
そして、彼らから大切なことを教わることだってあるのです。
 
なぜなら、彼らは我々人間なんかよりも、自立していますから。
想像すらつかない過酷な世界で自身の力のみで生きている訳です。
 
今回私は、このハトから大切なことを教わりました。
ちょっと最近仕事がハードすぎて悩んでいたのですが、
ハトが見せてくれた苦難を抱えても堂々と生きている様を見ていると、
苦難を直視し懸命に生きることの美しさを感じることができたのです。
苦難に追われて苦しんで生きることは、決して情けないことではない。
本当の「幸せ」とは、何なのか?
与えられた運命や試練の中で、必死にもがく「生命」たち。
 
いろいろなモノに護られた既得権益の人間なんかよりも、
他の文字通り「一生懸命」の生きる「生命」達のほうが、
よっぽど大切な何かを教えてくれるかもしれません。
 
あなたは一日の中で、どれだけの「生命」に、
目を向け、耳を傾けて、彼らの存在を「心」で認識しているでしょうか?
私たちは、同じ「生命」。
「偉い先生からしか学ぶモノはありません」なんて、少し傲慢だと思います。
苦しみながらも懸命に生きている「生命」であれば、
どんな「人」からだって、どんな「生命」からだって、学ぶことはたくさんあるのです。
 
「モノ」の時代から「生命」「心」の時代へ。
最近の若い世代は「サトリ世代」などと呼ばれているようですが、
私が心配せずとも、
今多くの人が本当の「幸せ」に気づき始めているのかもしれないなあと思ったりします。
旧世代の常識という鳥かごに囚われずに、
自身の「心」で感じ、自身の「心」で羽ばたいて、
生き生きと自分らしく生きていきたいものですね。