「憎しみ」の半減期

私の最近のこだわりは、「心」の「エネルギー」です。
 
私は、「憎しみ」という「感情」が、「原子力発電」のように、
長い期間かつ大きな「心」の「エネルギー」を発生させる源泉となると考えています。
 
しかし、永久に「憎しみ」から「エネルギー」を得ることは可能でしょうか?
私は不可能だと思います。
なぜなら「燃料」を使用しているからです。
 
私もかつて「憎しみ」を体験しました。
私の体験した「憎しみ」は、
「自身の不遇は○○のせいだ」という「想い」が源泉でした。
自分が「不幸」であればあるほど、「相手」への「憎しみ」は募ります。
おそらく「憎しみ」という「エネルギー」出力の「燃料」は、
自身を「不幸」と感じる「負の感情」です。
 
私はかつて会社でいじめに合い、会社を辞めました。
辞めたときの動機を今から冷静に思い返すと、
私は相手を「憎みたい」がために会社を辞めたように思います。
つまり、「あいつのせいで、俺は失業するのだ」という形を作り、
もっともっと「憎しみ」の炎の熱量を高めたかった。
 
会社を辞めて、自身が不遇であると感じているうちは「憎しみ」が存続しました。
長期間にわたって、強大に。
この時期は、周りに「放射線」のような悪いものを出していたかもしれません。
「憎しみ」の「エネルギー」は「放射線」により人を遠ざけ、
無意識のうちに、より「不幸」な境遇に自身を陥れようとする訳です。
 
永遠に、この「憎しみ」は続くと思っていました。
「この恨みは一生忘れない」と、真剣に考えていました。
 
しかし、いつしか「憎しみ」は薄れます。
「憎しみ」という「燃料」にも、半減期は訪れるのです。
 
私の場合は、2つの要因で「憎しみ」の燃料切れが起きました。
一つは、「時の経過」。
会社を辞めても、相変わらず迫り来る「現実」に対処し続けているうちに、
新しい環境で新たな他者との「心」の交流が生じ、
「燃料」の純度が少しずつ減少したのです。
もう一つは、「自身の客観視化」。
新たな「環境」では、自分が「不幸」であると感じることが難しくなります。
なぜなら「幸」「不幸」は、あくまで相対的な感覚であり、
「環境」が変更されると比較する対象の人々も変わるため、
「自身は不幸である」と思い続けることが困難となるのです。
結果として、いつか自身の「幸不幸」を再評価することになります。
比較対象が変わった「環境」で、
これまでと同様に「不幸」であると再評価できる人は少ないはずです。
 
諸行無常」「盛者必衰」。
「時」は、どんな「生命」にも平等に流れ、
「憎しみ」の「エネルギー」を永遠に存続させようとしても、
いつしか「燃料」は機能しなくなります。
 
また逆に、自身の「憎しみ」から逃れたいときには、
この「時」の効果を意図的に促進させることが効果的です。
すなわち、できるならば「環境」を変えること。
ツバメという「生命」は春に日本にやってきますが、冬には南の国に移動します。
そうやって、ずっとずっと生きてきたのです。
「移動」するということも、「生命」の大いなる力の一つです。
 
人という「生命」も動けるのなら「環境」を変えるべきです。
自分の「良環境」を探すことは、生物として当たり前の営みだと思います。
ただ「憎しみ」の火中にいるうちは、
もっともっと「憎しみ」の炎を燃やしたいと思うのが常です。
例え移動できても「移動したくない」と思うかもしれませんね。
そういう時には、炎に包まれている自分を客観視です。
そして、天秤にかけて下さい。
「憎しみ続けたい」という「憤怒の欲」と自身の真の「幸せ」を。
 
ただもちろん、
移動したくても様々な制約により移動できない人も多くいらっしゃると思います。
その時は、移動できない「生命」の雑草を参考にすべきです。
雑草は、どんな環境でも与えられた環境で生きています。
すなわち、移動できないのなら、雑踏のように強くなるしかない訳です。
大きく根を張り、大きく葉を茂らせ、最後に綺麗な花を咲かせる。
 
そのやり方は、このブログで一緒に考えていきましょう。
「自分」や「世界」の理を自分なりに知ろうとすることは、
「幸せ」への唯一のアプローチです。