世界の「中心」で「人生」を考える

皆さん、万物は流転し、諸行は無常です。
「世界」のどんなものも、変化をしていきます。
 
仏教では、
全てのものが移り変わってしまうからこそ、
「生きる」ことは「苦しい」のだと説いています。
諸行無常ウィキペディア
ウィキペディアの文を引用しますと、

生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。
生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。
この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
というふうに記されています。
 
すなわち、自分は「不変」で「永遠」であると錯覚してしまっているが故に、
本当は全然「永遠」でない「世界」に振り回され、「不幸」を感じてしまう。
 
そっか、自分もいつか終わるのか。
 
メメント・モリ(死を思え)」
(過去関連ブログ:「メメント・モリ」)
 
だけど、私たちの「人生」って本当に、「生」から「死」への直行便なのでしょうか?
おいおいそんな「意味」のないことを俺たちは体験しているのかよ?って
私なんかは思ってしまいます。
(過去関連小説:「生きる」)
 
そして仏教では、「不変」で「永遠」なのは「仏」だけなのだよと説いています。
以下は、上記ウィキペディアの引用です。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、
この世にあって、仏こそが常住不変であり、
涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。

大胆にも、私はこれに「異」を唱えたいと思います。
いやいや、「私」だって「不変」で「永遠」なのだと。
そう「信」じれば、初めから苦しむ必要もない訳です。
 
「なんと傲慢な!」って思われてしまうかもしれませんが、
まあ、何でも一回自分なりの考察で疑ってかかることは大切です。
 
まず「私」が「永遠」であることの説明からいたします。
「私」達は、「人生」がいつ終わるのか知らされていません。
これって結局は、現時点では「永遠」を生きていることになりませんか?
「明日もある」と確信して生きている内は、
それは「永遠」を生きているということだと思うのです。
 
もし何かしらの病にかかり、お医者さんから「余命」を宣告されたなら、
「6ヶ月後には生きていない」と実感し、
そしてその時に初めて「人生」は「有限」となります。
 
実際、死期を悟ったときに初めて「死にたくない」と「苦しむ」人も現れるでしょう。
しかし、死期を悟るまでの「人生」の大半の期間においては、
自身の「永遠」を「信」じて生きていれば、
余計な「苦しみ」を背負うこともないとも言えます。
 
また一方で、実は多くの人が「死期」を悟ったときに、
「世界」が美しく見え、「優しい」気持ちになるようです。
「死期」がわからないときはガムシャラに、時には過ちを犯しながらも「全力疾走」し、
そうした「全力疾走」を経て、
「死期」を悟ったときにはジタバタせずに有終の美を飾るというのも
悪くない生き方かもしれません。
 
ということで、明日死ぬという確率が限りなくゼロに近い現代社会において、
現時点で「私」の存在は「永遠」って言ってもよいのかなと思う訳です。
 
次に、「私」が「不変」であることの説明をします。
さて私は、この「世界」は、「心」と「モノ」の二軸によって構成され、
それぞれが「陰陽」の関係であると考えています。
 
「心」とは、「良心」である私達自身の本体のこと。
そして「モノ」とは、それ以外のものです。
「物質」ももちろん「モノ」ですし、
「良心」以外ということですから、私たちの「体」や「欲」も「モノ」です。
私は、「体」と「欲」というのは、
「遺伝子」という「モノ」が作りだした「心」の入れ物だと考えています。
 
さて、そう考えたときに「不変」なものが見えてくる訳です。
「万"物"は流転する」。
結局、変わる存在は、「モノ」だけだと私は考えます。
ですから、その「不変」なる存在とは、
「モノ」以外の、私たちの本体である「良心」のことだと、私は思うのです。
 
「体」も「欲」も、コンディションや年齢によって大きく「変化」する訳ですが、
私たちの「良心」だけは、「太陽」のようにずっと変わらずにそこにいます。
時に「心」は、「欲」という「雲」に覆われることもあるでしょうが、
「良心」は、変わらずにそこにあり続ける訳です。
 
という訳で、私たちの「本体」である「良心」は、
「不変」であると私は考えているのです。
 
世の中全てのものが「不変」であるとしたならば、
私たちは常に苦悩し正気を保てないと考えます。
ですから、「不変」のモノが一つでもあることは、とても「幸い」なことです。
 
「変わらないモノが世の中に一つだけある。それは、私の良心だ。」という
気づきやイメージを持つことができたのなら、
私たちは、人生において「苦しみ」から解放されます。
 
考えてもみて下さい。
私たちの苦しみは、すべて「変わる」ことから始まります。
「信」じていたあの人が「心」変わりした。
自分の「体」が、「病」や「老い」によって、悪くなってしまった。
出会った人が、自分を嫌い自分を攻撃するようになってしまった。
自分にとって大切な人が、ある日事故でいなくなってしまった。
 
変わることに対して、一喜一憂していては、「心」は疲弊してしまいます。
それなのに、この「世界」の全ての存在が変わってしまうのだとしたら、
それはもう絶望でしょう。
 
しかし!
「不変」なものが一つだけありました。
それが、私たちの「本体」である「良心」なのです。
 
宇宙遊泳をしている宇宙飛行士を想像して下さい。
その場所は、地球や太陽からも遠く離れたどこかの名もない宇宙空間。
そんな中を上も下も東西南北もない世界で、
フラフラとしていたら、きっと人の精神はもたないと思います。
 
せめて、「地球」が見えるところで!
普通の人ならそう考えると思うのです。
その「地球」的な存在が、私たちの「良心」という訳です。
「良心」だけは、変わらずにそこにあり続ける。
こう「信」じて「生きる」ことこそが、
「仏教」とは別アプローチの「苦しみ」を克服する方法なのかなと、考える次第です。
 
今、世界は「天動説」でなく「地動説」で動いています。
「地動説」であるということは、
私たちの「世界」が「宇宙」の「中心」ではなかったということを意味するのです。
 
じゃあ、「宇宙」の「中心」とはどこでしょうか?
もしかしたら座標軸のような数値で「中心点」を表わすことができるのかもしれませんが、
そんなものは、本当はどうでもいいのです。
この「世界」の「中心」は、私たち自身である。
これが正しい答えだと、私は考えます。
現に、「世界」なんて、
「私」が生まれる前にも「私」が死んだ後にも存在しないのです。
「世界」を「観測」する「私」がいないのですから、当たり前ですよね。
 
そういう「天上天下唯我独尊」的な考え方をすることでしか、
私たちは「苦しみ」から解放された「生き方」ができないと、私は思います。
そして、その「天上天下唯我独尊」的な考え方こそが、
私たち「生命」にとっては、おそらく「真理」であろうと考える次第です。