癒す「言葉」

多分、誰の「人生」もそうなんでしょうが、
私の「人生」もなかなか大変です。
 
与えられた「才能」以上に、
そして与えられた「ハンデ」を乗り越えて、
情け容赦ない「現実」に対応していかなければ、成り立たない日常。
正直辛いです。
 
そんなある日、仕事の道中で、こんなお寺の貼り出しを見つけました。

 
「波風のない
 安心しすぎる生活が続くと
 いざというときに
 ものの役に立たなくなる」
 
私は、よくお寺で貼り出されている、こういった「言葉」が好きです。
キリスト教の聖書の「言葉」も、よく道ばたに貼り出されていますが、
お寺に貼り出されている「言葉」の方が、傷が絶えない「心」に暖かく染みこんできます。
 
きっとキリスト教は聖書を「信」じることが先に必要で、
その上で、聖書の「言葉」は有難いから勉強をしようというスタンスだから、
「言葉」の浸透力は弱いのだと思います。
キリスト教の「言葉」は、こっちから歩んでいかなければいけない。
対して、お寺とかで貼り出す仏教の「言葉」は、
向こうから歩み寄ってくれる「言葉」です。
 
キリスト教は人々をあるべき姿に「導く」宗教であるのに対して、
仏教は人々を「苦しみ」から解放する哲学であることが、
こういったところにも現れているのかなと思います。
仏教は、全ての「生命」の味方です。
 
さて私はこのお寺の張り出しを見て、
「心」の肩の力が少し抜けたような気がしました。
この「言葉」は、「ガンバレ!」とは全く異なる励ましの「言葉」です。
今の私に「ガンバレ!」という「言葉」をかけて頂いたらもちろん嬉しいですが、
今回の張り出しの「言葉」の方が、ずっと効果があります。
 
この違いは、「理論」的か否かという観点から生じているようです。
 
根拠なく「ガンバレ!」と言われても、その相手の「心」は有難いけど、
何か効能があるかというと、結局何の解決策も示していない。
対して、今回の張り出しの「言葉」のように、
根拠を示して今の「自分」を「承認」してくれる「言葉」だと、
「なるほど」と思うと同時に「心」が軽くなる。
 
こういったことを考えると、やはり仏教は「知恵」の宗教だなと感じます。
2000年以上の時を越えて仏陀を初めとして多くの人々が生み出した「知恵」の結晶。
だからこそ、仏教は現代でも通じる「言葉」を紡げます。
 
仏教は、人々を「苦しみ」から解放するために生まれた「優しい」哲学です。
私も哲学としての仏教の「知恵」を勉強させて頂いて、
他者の「心」を癒せる「言葉」を生み出せるようになりたいなと思います。
 
人々を「幸せ」にするためには、私はまだまだ勉強不足です。